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2016年 10月の記事(9)

ナントカ堂

ナントカ堂 2016年10月25日 10:32

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年10月07日 23:36

東李西麻

明末に「東李西麻」と並び称された李成梁と麻貴の一族ですが




朝鮮に源流を持つ李成梁の一族は
李思忠

李林隆

のように清朝に仕えて八旗となり支配者層として生き残りました



これに対して回族の麻貴の一族は『世系譜牒與族群認同』によれば朝鮮に移り住んだとあり、さらに同書には、wikiに伝のある戸部尚書や兵部尚書を歴任した石星の子孫を初めとして多くの明朝遺臣が朝鮮に移り住んだことが記されています


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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年10月07日 22:58

宦官世家

宦官の一般的イメージから童貫が武将をしていることに奇異の目を向けられますが、宋は建国当初から宦官が武将として活躍しています。以下は『宋史』に見られる武将として活躍した宦官のうち主だった者です。

『宋史』巻四百六十六「宦者伝一」

竇神宝:父が皇城使で、兄が左領軍衛大将軍、自身も北漢遠征時には鎧を着て城壁を登り流れ矢を受けたのを皮切りに、西夏や周辺民族の討伐に従事
王継恩:江南遠征に禁軍を率いて戦い、李順が乱を起こして成都を占拠するとこれを攻略。
閻承翰:李順の乱を平定。対契丹戦に従事。
秦翰:趙保忠の乱の際には計略を用いて自らの手で趙保忠を捕縛。王均の乱を平定。契丹や西夏との戦いに従事し、生涯に四十九箇所の傷を負った。
張崇貴:西夏が霊州を包囲した際に派遣され、以後その地に駐留。軍事のみならず西北の民族の習俗も良く知っていたので畏服された。
張継能:成都・陝西・番禺など各地に遠征

『宋史』巻四百六十七「宦者伝二」

楊守珍:書や史、兵家を学び、弓の名手で、使用人が通りかかったときに矢を射てもとどりに当てて称賛された。対契丹戦に従事。
韓守英:契丹との戦いで活躍。平穏になると、地元の民のために兵の削減を建言。
李憲:対西夏戦で宋軍が劣勢に立たされていたところを、皇帝から与えられた旗を掲げて士気を上げ勝利に導き、以後も西夏戦に従事。
王中正:十八歳のときに宮中で衛士が変を起こすと弓矢で応戦。勇気を称えられるも、その後、吐蕃戦に従事して戦果無し
梁従吉:西夏に応戦してその将を捕らえた。その後、寧州の反乱を鎮圧。霊武攻略中に重傷を負う。

『宋史』巻四百六十八「宦者伝三」

李祥:初めに内黄門となり、騎射の腕を見込まれて涇原儀渭同巡検となる。交阯遠征や対西夏戦に従事

上記のほかにも『宋史』「宦者伝」には、ほぼ宮中で働いていたり主に土木工事に従事してはいても一応武官職に就いている者もいました。これら宋代の宦官は養子を取ることが許され、その子が父の引き立てにより初めから優位な地位に就くことで、宦官がなかば世襲化する状態になっていました。こうした史料はあまり残されていないので、『宋史』からは有力な宦官の子が何かの官職に就いたことまでは分かるものの、その孫以降になると不明なわけですが、そのうち閻承翰については「宋初高級内臣閻承翰事蹟考」の分析により、閻承翰(947~1014)、養子・閻文慶(?~1038)、養孫・閻士良(1010~1063)、養曾孫・閻安(1077~1100)と四代に渡って代々養子を取って宮中の高官に上り、太祖から徽宗の代まで連綿と続く「世家」となっていたことが分かっています。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年10月07日 22:57

北宋外戚将家

『宋史』の「后妃伝」を見ると、北宋の前半では皇后は武官の家から迎えており、文官の家から迎えるのは時代が降って神宗の時代からになります。宋代の外戚はあまり専横の振る舞いが無く国家に忠実な人物が多かったようです。そのうち事績が比較的良く分かっている劉文裕・李処耘・李崇矩・高瓊・曹彬の一族についてみていきましょう。

劉文裕は『宋史』巻四百六十三に、劉文質は『宋史』巻三百二十四に伝がありますが、宋の太祖の祖母がこの劉氏の出です。その太祖の祖母の甥に当たるのが劉審奇で、太祖が李重進を討ったときに戦死しました。劉審奇の子のうち、長男の劉文遠は北漢遠征で戦死しました。次男が劉文裕、三男が劉文質で共に軍功を挙げました。劉文質の子は十六人いて、そのうち劉渙と劉滬の事跡が『宋史』巻三百二十四に記されています。
劉渙は刺史や知州などを主に文官を歴任した人間ですが、兵が反乱を起こそうとしたときに単騎で陣に乗り込み首謀者を斬って鎮めるなどの豪胆なところがあり、片や西夏戦で荒廃した地でよく民情に配慮した政治を行い、工部尚書で致仕しました。
劉滬が渭州瓦亭砦監押の職にあったとき、西夏が近隣一帯を蹂躙しました。土地を追われた難民に対してどの街や砦も後難を恐れて門を閉ざす中、劉滬だけが門を開けて難民を受け入れたので賞賛されました。その後は西北にあって周辺民族を味方に引き入れつつ防衛に努める一方で、砦を築き治水を行い、特に秦渭を開通させて地域を発展させたことが顕彰され、徽宗の時代に忠烈侯を追贈され、忠勇廟が建てられると、神として祀られるようになりました。

李処耘と子の李継隆・李継和は『宋史』巻二百五十七に伝があり、その一族については中華書局から出ている『攀龍附鳳』に詳しく記されてます
父の李肇は後唐に仕えて検校司徒にまで上り詰めたものの戦死、李処耘は初めに府州の大族である折従阮に仕え、その後、李継勲に、さらに即位前の趙匡胤に仕えて、諸将と共にこれを皇帝に推戴、枢密承旨・右衛将軍に任じられました。その後、各地で軍功を挙げますが、遠征中に慕容延釗と対立、慕容延釗の配下が規律を破り、それを李処耘が罰したものでしたが、朝廷では慕容延釗が宿将であるとして、新参者の李処耘を左遷、李処耘は不遇のまま世を去りました。これを不憫に思った太祖は、李処耘の次女を弟の趙匡義の元に嫁がせました。これが当時は誰も想定していなかったことに、趙匡義が皇帝となったことで皇后となり、李氏が運が開ける元となりました。
子の李継隆が仕官したばかりのころ、父の左遷の余波で李継隆も除籍され、まもなく復権しましたが、権臣に疎まれていたので狩りをして気晴らしをする日々をすごしていました。その後、蜀や江南への遠征で勇敢に戦ったことが評され、次第に活躍の機会を与えられて、これに応えるように奮闘しました。学識があったことと姉の縁で、太宗の時代になると軍機に与り、真宗の代となると弟の李継和共々さらに信任されるようになって、後に理宗が選んだ昭勲閣二十四功臣の一人にも入れられました。
李継隆の子の李昭亮とその子である李惟賢は『宋史』巻四百六十五の外戚伝に収められています。李昭亮は四歳にして東頭供奉官に任じられて宮中の出入りを許されるほどでしたが、その恩沢に甘えることなく、将家の子として軍事を学び、当時都が平和で弛緩した禁軍を厳しく引き締めたので仁宗から信頼されて、李惟賢も同様に規律の引き締めに努めて、仁宗から愛されました。

李崇矩は貧しい孤児の出で、後漢の時代に史弘肇に目をかけられて側近に取り立てられました。その後史弘肇は殺されますが、後周の高祖は史弘肇と旧知の仲であったので李崇矩を取り立てました。後周から宋になっても武将として活躍し、李崇矩自身は趙普と縁戚を結んだことで徒党を組もうとしていると讒言され、子の李継昌は太祖の娘との縁談を断ったため、一時は太祖から不快に思われていましたが、数々の軍功を上げ、また親子共々その度量の広さから人々に好かれていたので、順調に官職を歴任して行きました。(以上『宋史』巻二百五十七)
李継昌の子の李遵勗は騎射を得意としていましたが、進士となったところから文の道を進もうとしたと思われます。ただ真宗は李遵勗を気に入って、元は李勗という名であったものを「遵」の字を与えると共に、公主を嫁がせ、左龍武将軍を授けて邸宅を与えるなど、将家の子として優遇しようとしたようです。その後はその期待に応えつつも文才を発揮して『間宴集』二十巻、『外館芳題』七巻を残しました。
その子の李端懿と李端愿は共に七歳で如京副使に任じられて宮中を自由に出入りすることを許され、その弟の李端愨は神宗から「近世の賢戚」と感嘆されるほど、一族は栄えましたが、李端愿の子の李評は性格に難がありあまり振るわないようになりました。(以上『宋史』巻四百六十四)

高瓊と子の高継勲・高継宣については『宋史』巻二百八十九に伝があります。
高瓊の祖父は高霸、父は高乾、高霸は契丹に仕えて南唐との交渉に当たりましたが謀殺され、これを機に高乾は濠州に住んで、高瓊はここで生まれました。
高瓊は若いころ無頼の徒で、盗賊となって捕らえられ、市で磔となるところを見張りの隙を狙って逃亡、王審琦に仕え、さらにこのとき京兆尹であった趙匡義の目に留まって従者として仕えるようになりました。趙匡義が太宗として即位すると、御龍直指揮使に抜擢され、その後、名将として活躍し、その言動は『宋名臣言行録』に収録されています。
その子の高継勲は「神将」と呼ばれたほどの人物で、その弟の高継宣も名将、さらに高継勲の子の高遵甫の娘が神宗の皇后となったことで繁栄の緒を掴みました。
高瓊の孫の高遵裕以降については『宋史』巻四百六十四の「外戚伝中」に記されていますが、高遵裕から従弟の高遵恵、その従甥の高士林、高士林の子の高公紀、高公紀の子の高世則と、代々朝廷の高官となりました。宣和の末になると、高世則は徽宗から、国の代表として金との交渉を任され、康王が金の南下を食い止めるために出発すると高世則はその補佐役として付けられました。以後は康王から離れず苦労を共にして、康王が高宗として即位すると朝廷の重鎮となりました。

曹彬は、本人についてはwikiその他に記されているのでここでは省きます。
子のうちサン(玉へんに燦のつくり)・イ(玉へんに韋)・琮について『宋史』巻二百五十八の曹彬伝の附伝として記されています。
曹サンは対契丹戦に従事し、名門の出でありながら謙虚で率先して戦ったと評される勇将、曹イは対西夏戦に従事して、若くして老練した将のように状況を読むことができたといわれた知将、曹琮も数々の軍功を上げながら、皇后といとこであったので仁宗が優遇しようとしたときに、朝廷の乱れに繋がるとして断り、死んだときには家に財産が無かったという清廉な人物でした。
曹彬の孫の曹イツは『宋史』巻四百六十四に伝がある人物で、容姿に優れて学識もあり謙虚で神宗・哲宗に仕え、曹イツの子の曹評と曹誘も朝廷の重臣として、神宗・哲宗から徽宗の代まで仕えており、その栄華は北宋の朝廷とともに絶えること無く続きました。
北宋が滅び南宋が起こると、新たに出来上がった朝廷は前代までのしがらみから脱し、前代まで優遇されていた家系は脇に追いやられていきます。曹彬の家系も南宋時代にはあまり目立った活躍はしませんでしたが、その最後を飾るように現れたのが曹友聞で、その伝は『宋史』巻四百四十九の「忠義伝四」に収められています。科挙に合格して進士になり官職に歴任したものの、時既に南宋は滅亡に向かっており、曹友聞は私財を投じて五千の兵を集め、各地で善戦するも衆寡敵せず討ち死にしてしまいました。曹彬から始まり曹友聞まで、ひたすた宋のために尽くした家系といえるでしょう。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年10月05日 21:27

信王と広東摧鋒軍

靖康元年(1126年)に都が落ちた後も、天会八年(1130)に張中孚が平和裏に降伏するまでは陝西の地は宋の勢力範囲であり、他にも華北には一時的ではありますが宋の残存勢力がありました。その盟主が徽宗の十八男で『宋史』巻二百四十六に伝のある信王・榛です。信王は他の皇族と共に北に連行される途中、慶源で脱出に成功、真定に潜伏するうちに、五馬山砦に籠もる馬拡と趙邦傑がこれを主として推戴します。信王は各地に散らばる宋の義兵を糾合すれば勝機がつかめると考え、諸砦との連携を馬拡に任せました。しかし信王側近らが馬拡に不信感を持って対立、さらに現状では勝利を望めないと判断したため馬拡は、大名府で兵を集めたままそこに留まり動かなくなりました。さらに江南にいる高宗の朝廷が信王の動きを警戒するなか、金はこれらが連携して行動する前に先手を打とうと、各地の砦を攻めて連携を絶ち、五馬山砦を攻め落としました。信王は行方知れずとなり、ここに中原の地での宋の復興の芽は潰えました。
このとき信王の配下に韓京という人物がいました。欽宗の詔書に応じて旗揚げし、信王軍に合流した人で、慶源に駐屯していましたが、慶源が金軍に攻め落とされると、仲間と共に包囲を突破、その後、黄河を渡って落ち延びながら次第に仲間を集め、これが三千人の軍勢となりました。南宋の朝廷はこれに官職を与えて、初めに岳飛の配下として各地の反乱鎮圧に向かわせ、後に当時辺境の地で政情治まらない広東の地の駐留軍として送り出します。ここに「広東摧鋒軍」が成立しました。『南宋地方武力』にはこの広東摧鋒軍の他にも同様の地方勢力である福建左翼軍や湖南飛虎軍などについて記されていますので、詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。広東摧鋒軍は広東地域の反乱鎮圧を主な任務として南宋一代の間続いていきました。元朝が臨安を下して南宋の亡命朝廷ができると、周囲が次々と元に降る中、広東摧鋒軍は最後まで亡命朝廷の側に立って戦い、最後の拠点となった潮州で全滅するまで戦って消滅しました。

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