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2020年 06月の記事(3)

ナントカ堂

ナントカ堂 2020年06月11日 06:38

李成桂の先祖

『朝鮮王朝実録』の「太祖実録」の「総序」より冒頭から太祖の父の記述まで。


 太祖康献至仁啓運聖文神武大王、姓は李氏、諱は旦、字は君晉、以前の諱は成桂、号は松軒、全州の大姓である。
 司空の翰は新羅に仕え、太宗王の十代目の子孫で軍尹の金殷義の娘を娶り、侍中の自延が生まれた。自延の子は僕射の天祥、天祥の子は阿干の光禧、光禧の子は司徒・三重大匡の立全、立全の子は兢休、兢休の子は廉順、廉順の子は承朔、承朔の子は充慶、充慶の子は景英、景英の子は忠敏、忠敏の子は華、華の子は珍有、珍有の子は宮進、宮進の子は大将軍の勇夫、勇夫の子は内侍執奏の隣である。隣は侍中の文克謙の娘を娶り、将軍の陽茂が生まれた。陽茂は上将軍の李康済の娘を娶り、安社が生まれた。この安社が穆祖である。

 穆祖は豪放な性格で志が高く、初めに全州にいて、二十歳を過ぎると勇略人並外れて優れていた。山城別監として仕官し、職務上で妓の事により州官と仲違いした。州官が按廉と共に穆祖を訴えたため、兵が出されることとなった。穆祖はこれを聞くと江陵道の三陟県に移り住んだ。民のうち共に移住することを願った者は百七十家ほどであった
 三陟県に落ち着くと船十五隻を造って倭に備えた。その後、元の也窟大王の兵が諸郡を攻撃したため、穆祖は頭陀山城に籠って乱を避けた。以前に山城別監であったため新たに按廉使に任じられた。元軍が再び襲来すると、穆祖は被害を恐れ、家族を連れて海路、東北面の宜州の徳原に逃れた。このとき民百七十戸あまりが付き従った。東北の民の多くが穆祖に帰服した。
 高麗は穆祖を宜州兵馬使とし、高原に鎮守させて元軍を防がせた。このころ双城以北は開元路に属していた。元の散吉大王が双城に来て駐留し、鉄嶺以北を取ろうと計画して、穆祖のもとに二度使者を遣わし元に降るよう求めた。穆祖はやむを得ず金甫奴ら一千戸あまりを率いて元に降った。平壤の民は以前より穆祖の威望を知っていたため、穆祖が降るとこれに従って元に降った。散吉は大いに喜び、甚だ厚く礼遇して盛大に酒宴を催した。宴会が終わるころ、散吉は自らの手で穆祖の懷中に玉杯を入れ「貴公の家族は我ら二人が強い友情で結ばれていることを知らないだろう。そこでこの玉杯を見せて友情の証として欲しい。」と言った。これを機に「以後互いにこのことを忘れない。」と誓い合い、穆祖は一族の娘を散吉の妻とした。
 穆祖は水陸を経て時利に行った。時利城では千戸が兵を率いて元軍を阻んでいたが、穆祖が帰順を説くと、千戸は盛大な宴会を開いてもてなした。穆祖は返礼として牛馬を贈った。穆祖は開元路の南京の斡東に移り住んだ。宋の理宗の宝祐二年、元の憲宗の四年、高麗の高宗の四十一年甲寅のことである。
 翌年乙卯、散吉が元の帝にこのことを報告すると、元は斡東千戸所を設置し、穆祖に金牌を授与した。そして穆祖は南京等処五千戸所の首千戸とし達魯花赤兼任となった。
 斡東は南京の東南九十里ほど、現在の慶興府の東三十里にある。斡東の西北百二十里あまりに豆門城が、更にその西百二十里あまりに斡東沙吾里がある。沙吾里とは女真の言葉で駐屯地に意であり、斡東管内にあったためこの名がついた。その平地に大土城があり、南京の平地にも大土城があった。その北七、八里に大石城があり、これら全てが穆祖の支配地域であった。穆祖は斡東に住みつつも、諸城を往来し、一定の場所に留まらなかった。
 斡東の東南三十里ほどに、者考羅という海島があり、北は陸に繋がっていた。穆祖は石城を築き牛馬を放牧した。
 憲宗八年、穆祖は散吉の令旨を受けて李春・文大純・趙奧・魯哥児・卓青・尚哉・光奕・張哥ら八人の百戸を束ねる任に就き、キツ扎百戸句当を兼ねた。
 世祖皇帝の中統二年辛酉六月、尚書省が穆祖に本所行使の銅印を発給した。
 至元元年甲子五月、皇帝より直接斡東千戸句当に任命された。
 至元十一年甲戌十二月に薨去して、孔州、即ち慶興府の城南五里に埋葬された、後に咸興府の義興部の韃靼洞に移された。これが徳陵である。
 穆祖の妻の李氏は千牛衛長史の公粛の娘で、行里を産んだ。これが翼祖で、至元十二年乙亥三月に官職を継いだ。
 
 十八年辛巳、世祖が日本に遠征するため、天下の兵船が合浦に集結した。翼祖も命を受けて兵を集め、双城総管府の三撒や千戸の蒙古大塔失らと共に従軍した。このとき初めて高麗の忠烈王と会い、それから三回会ったが、会うたびに謙虚な態度を取った。退出する際「先臣(父の穆祖)が北に逃亡したのは、虎狼の牙から逃れるためであり、決して主君に背くつもりはありませんでした。願わくば主上にはその罪をお赦しください。」と言うと、忠烈王は言った。「卿は本来士族でありその本分を忘れていないようだ。今、卿の態度を見るにその誠意が十分分かった。」

 穆祖の時代、穆祖がケン城に行くと、諸女真千戸や達魯花赤がみな交際を求めてきた。そこでこれを受け遂には共に狩りに行くようになった。諸千戸は大いに歓待し、その度に必ず牛や馬を一頭捌いて宴会を開き、数日間逗留した。諸千戸が斡東に来た時も、穆祖は同様にもてなし、翼祖が官職を継いでからも同様にして改めることは無かった。翼祖の威徳が次第に盛んになると、諸千戸の下に付いている者たちの多くが、翼祖に帰服するようになった。諸千戸はこれを憎み殺害を企てこう言った。
 「李行里(翼祖の諱)は本来我らと同じ民族ではない。今、この情勢を見るに、必ずや我らの不利となろう。奥地の住民から兵を出してもらい排除して、その財産を皆で分けよう。」
 そしてこう偽った。
 「我らは北の地に狩りに行くので、会うのを二十日延期しよう。」
 翼祖は了承したが、期日になっても諸千戸は来なかった。そこで翼祖自らケン城に行くと、老人・病弱な者・婦女だけがいて、壮丁は一人もいなかった。そこで一人の女に尋ねると、「獲物が多いのでまだ帰ってこないだけだ。」と答えた。
 翼祖は帰ることにし、途中で一人の老婆に会った。老婆は頭に水桶を載せ手に椀を一つ持っていた。翼祖は急に喉が渇いて水が飲みたくなった。老婆は椀を洗って水を入れ、進めるとこう言った。
 「貴方はご存じないでしょう。ここの住民は貴方を嫌って謀殺しようと考え、遠方に兵を求めて自分たちは逃げたのであり、猟に行ったのではない。三日後に必ず兵が来る。私は貴方の威徳を惜しんで告げるのだ。」
 翼祖は驚いて家に戻ると、家族に命じて家産を船に載せ、豆満江を下って赤島で合流することを約し、自らは孫夫人と共に加陽灘を渡って高台に登りあたりを見回した。すると斡東の野は多くの敵で満ち、こちらに向かってくるのが見え、その先鋒の三百人あまりがあと僅かの距離にまで迫っていた。翼祖は夫人と共に馬を走らせて赤島の北岸に至った。赤島までの距離は六百歩ほどで深さは測り知れず、約束していた船もまだ到着していなかったためどうすることもできなかった。北海は本来潮の干満は無かったが、水が突如百歩ほど退き、浅瀬が渡れる状態になった。このため翼祖は夫人と共に白馬に乗って島に渡った。従者らも渡り終えると、水は再び押し寄せて、敵は渡れなくなった。北方の人は今に至るまで「天の助けの拠るもので人の力の及ばぬところだ。」と言っている。
 翼祖は赤島に穴を掘って住んだ。その遺跡は今でも残っている。斡東の民は翼祖の居場所を知ると、島に渡ってきて市を成すように集まり、みな島内に住んだ。しばらく経って、稷島・楸島・草島から資材を集めて船を十艘造り、至元二十七年庚寅に、船に乗って宜州に移り住んだ。孔州の民は全員翼祖に従った。その居所は現在、赤田と呼ばれているが、これは赤島から名を取ったものである。
 孫夫人との間に男子が二人生まれた。長子をギ(女に為)水、次子を福という。夫人が亡くなると貞妃崔氏と再婚した。これは登州の安辺戸長の基烈の娘である。宜州のケン村を本拠地とし、また民三十戸を州の西十五里に住まわせた。後にその地を「三十戸平」と呼ぶようになった。
 結婚して数年間、二人の間に子供が生まれなかった。そこで崔氏と共に洛山観音窟に祈りに行った。その夜、夢に一人の僧が現れて「必ずや立派な子が生まれよう。名を善来とすべし。」と告げた。まもなく妊娠して子が生まれ、善来と名付けた。これが度祖である。観音窟は現在の江原道の襄陽府にある。このころ翼祖は安辺を行き来し、また和州と咸州にも行き来していた。
 成宗の大徳四年十月、宣命により承仕郞の地位を与えられ、管領双城等處高麗軍民・達魯花赤となった。
 某年九月十日、翼祖が薨去し、安辺府の瑞谷県の奉龍駅の北洞に埋葬した。これが智陵である。

 度祖、諱は椿、小字は善来、蒙古諱は孛顔帖木児、宣命により官職を継いだ。
 妻は敬妃朴氏で、斡東百戸で贈門下侍中の光の娘である。その間に男子が二人、長子は子興、蒙古名を塔思不花といい、次子が桓祖である。朴氏が亡くなると和州に移り住んで趙氏を妻とした。これは双城総管の娘で、二男三女が生まれた。長男は完者不花、次男は那海である。
 翼祖の時代、咸州は土地が平坦にして肥沃で、斡東の民が南下して、帰州・草古台・王巨山・雲天・松豆等・都連浦・阿赤郞耳などに住んだ。このため咸州には斡東の優秀な女真が住むと言われている。度祖は安辺以北の地を全て有すると咸州に移った。、南下してきた民の居住地の近くで牧畜に適していたためである。
 度祖が忠粛王のもとに朝貢に行くと、忠粛王は多大な賜り物をしてその忠義を奨励した。
 度祖の夢の中である者がこう告げた。「我は白龍なり。今、某所にいる。黒龍がわが居所を奪おうとしている。貴公がこれを救うことを求める。」目を覚ました度祖はあたりがいつも通りであったため気にしなかった。すると再び夢に白龍が現れて「貴公はなぜ私の言うことが分からないのか。」と懇請した。度祖はようやく霊夢だと気が付いた。そこで弓矢を持って教えられた場所に行くと、雲と霧であたりは見通せなくなり、白と黒の二頭の龍が淵にいて戦っている最中であった。度祖は矢を射ると一矢で黒龍を斃し、黒龍は淵に沈んでいった。後に夢に白龍が礼をしに現れて「貴公の恩により子孫には大いなる幸福がもたらされるであろう。」と言った。
 度祖が行営にいたとき、二羽の鵲が営中の大樹にとまった。度祖が樹から数百歩の距離からこれを射ようとすると、麾下の士はみな絶対に当たらないと言った。射ると二羽とも落ちた。そこに大蛇が現れて、二羽を銜えると、自分では食べずに他の樹の上に置た。人々は不思議な事と思い、歌に乗せてこのことを称賛した。
 順帝の元統二年甲戌、度祖は風疾に罹り、官職を塔思不花に継がせようとしたが、趙氏は自分の子の完者不花に継がせることを求めた。
 後至元丁丑、中書省から官人が派遣されて、庚寅年以降に移り住んだ斡東の女真人を元の地に戻すよう命じた。度祖が中書省に宛ててそのままとするよう願ったため、結局、送還は中止となった。
 至正二年壬午七月二十四日、度祖が薨去して、咸興府の礼安部の雲天洞に埋葬した。これが義陵である。

 塔思不花が開元路に度祖の逝去を報告すると、開元路は審査して、塔思不花が正室の子であるとして官職を継がせた。
 九月、塔思不花が卒去すると、子の咬住はまだ幼かった。
 那海は母の趙氏が高麗王族の血を引き、兄の完者不花と共に元尹・正尹の地位に就いており、また趙総管の後ろ盾もあったため、跡目を狙い、喪中に乗じて密かに宣命と印信を持ち去った。管内の兵と民はみなこれに怒り「趙氏は嫡系ではない。どうして那海が官職を継げようか。」と言った。
 桓祖は塔思不花の妻の朴氏に言った。「義姉上は自ら開元路に赴きこのことを訴えるべきだ。」朴氏は安辺の住人の得賢の女である。桓祖と咬住は朴氏に付き従って開元路に行き訴えたため、開元路から元の朝廷に報告された。
 至正三年癸未正月、元の朝廷は、趙氏が嫡系ではなく、咬住はまだ幼いため、桓祖が仮に官職を継ぎ、咬住が成人してから正式な官職を与えることとした。そして使者を遣わして那海を誅することにした。このことを聞いた那海は、宣命と印を懐に入れて遮仁寺に隠れたが、捕えられて殺された。那海の兄の完者不花は領敦寧致仕の李枝の父である。

 桓祖、諱は子春、蒙古諱は吾魯思不花。歯が抜け替わるころには普通の子より抜きんでていて、やや成長すると騎射を得意とした。官職を継ぐと士卒は進んで従った。咬住が成長すると、桓祖は官職を返そうとしたが、咬住は譲って受けなかった。咬住は後に桓祖に従って都に行き恭愍王に拝謁した。恭愍王は咬住を宿営に所属させ、後に咬住は中順軍器尹の地位にまで至った。
 至正十五年乙未、桓祖が都に行って恭愍王に拝謁すると、恭愍王は言った。「卿の祖父は身は国外に居たとはいえ心は我が国に在った。わが祖父も父もよく気に掛けていた。今、卿が祖父や父に恥じぬよう重く取り立てよう。」
 以前のこと、双城の地は肥沃であったが政治が大雑把であったため、東南から来た生業を持たない民が多く住んでいた。恭愍王が現状を元に伝えると、中書省と遼陽省から官人が遣わされ、恭愍王も征東省郞中の李寿山を遣わし、三者が協議して新旧の民を選り分けて戸籍に登録した。これを「三省照勘戸計」と言った。その後、住民の統治は上手くいかず、次第に流民となっていった。恭愍王は桓祖にこれを安定させるよう命じ、民は以後生業に就いて安心して暮らすようになった。翌年の丙申、桓祖が拝謁すると、恭愍王は迎え入れて言った。「卿は頑迷な民を安定させるため苦労したであろう。」
 このころ奇皇后の一族が権勢を笠に着て横暴に振舞っていた。皇后の兄で大司徒の奇轍は、双城の官吏の趙小生や卓都卿らと密かに結びつき、互いに呼応して謀叛を起こそうと企てた。恭愍王は桓祖に言った。「卿は帰ってわが民を鎮めよ。事態が収まってから私に報せるように。」
 その年五月、奇氏は滅ぼされた。恭愍王は密直副使の柳仁雨に双城遠征を命じた。柳仁雨らは双城から二百里の登州に到着すると、そこに留まり進軍しなかった。これを知った恭愍王は、桓祖に試少府尹の地位を与え、紫金魚袋を賜り中顕に昇格させて、兵馬判官の丁臣桂を遣わし内応するようにと伝えた。命を受けた桓祖は、即刻、枚を銜えて出発し、柳仁雨の軍と合流して双城を攻め落とした。趙小生や卓都卿らは妻子を棄てて夜中に逃亡した。ここに高麗は和・登・定・長・預・高・文・宜の州、宣徳・元興・寧仁・耀徳・静辺などの鎮城、咸州以北の哈蘭・洪献・三撒の地を取り戻し、高宗の時代に元に取られてから九十九年、ようやく全てが帰ってきた。恭愍王は桓祖を大中大夫・司僕卿とし、都に一区画分の邸宅を与えた。そこで桓祖はこれを機に都に留まり住んだ。
 このころ倭が楊広道を攻撃し、京城は厳戒態勢となった。桓祖は判軍器監事の地位で西江兵馬使として赴任した。これより通議大夫と正順大夫を加えられ、千牛衛上将軍を拝命した。
 至正二十一年辛丑春、栄禄大夫・判将作監事の地位で、朔方道万戸兼兵馬使に赴任した。御史台が「李子春は本は東北面の人でしかもその地の千戸です。兵馬使として鎮守させるべきではありません。」と反対したが、恭愍王は却下した。忽赤庁で宴会が開かれ盛大にもてなされ、更に宰枢が会賓門外にて餞別し、出発すると戸部尚書に昇進した。桓祖は北道に到着して間もなく「本国(高麗)の人がかの地に入ると、みな出て来て帰順しました。」と早馬で報告した。
 四月庚戌、病のため薨去した。享年四十六。咸興府の信平部の帰州洞に埋葬された。これが定陵である。訃報を聞いた恭愍王は深く悼み、使者を遣わして弔問し礼式に則って贈り物をした。士大夫はみな「東北面に人材がいなくなった。」と言って驚いた。


 敵から逃げる時に潮が引いて逃げられたとか、黒龍を仕留めたとか、どう見ても神話の域です。
 ただ総序はこれに続く太祖・李成桂の記述でもやたらと弓矢の技量に優れていたという記事が見られ、これもある種、伝説的です。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年06月06日 12:00

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年06月02日 01:45

仇士良

ウィキペディアに仇士良の項目が無いから書こうと思ったのですが
アカウントだのIDだのいろいろ小難しい事が書いてあって
私、基本ローテク人間なので訳わからなくて不安なのでこちらに書きます。
というか、ウィキなら略歴だけ書いて、(出典:『全唐文』巻七百九十)とでも書こうと思ったのですが面倒なので「両唐書宦官伝」からの転写です。


「内侍省監楚国公仇士良神道碑」(『全唐文』巻七百九十)
(要訳)

 公の諱は士良、字は匡美、海豊の興寧の人である。宋の大夫の仇牧は忠義者として『春秋』に記されているが、公はまさにその子孫である。その子孫の仇香は文雅を以って後漢に仕え、仇儒は議論を以って北燕で評判となるなど、歴代著名人を輩出した。曽祖父は正議大夫・内給事で緋魚袋を賜った上客、祖父は朝議大夫・内常侍で紫金魚袋を賜った奉詮である。父の文晟は公の功績により特進・左監門衛将軍を追贈されて紫金魚袋を賜り、まさに親孝行といえよう。
 公は弱冠になる前に皇太子の宮に出仕した。当時皇太子であった憲宗の朝夕の食事係となって九年間共に楽しく過ごし、永貞十年(?)に掖庭局宮教博士となって緋魚袋を賜った。元和の初め(806)、憲宗は古くからの臣に報いようと考え、公は宣徽供奉官を加えられ紫金魚袋を賜った。閏六月には宣徽供奉官はそのままで朝散大夫・内侍省内給事に転じ、十月には内常侍となって、三年(808)に内外五坊使となった。
 十年(815)に大中大夫・内侍省内常侍を加えられ、まもなく平盧軍監軍使となった。平盧は古くから優遇されていたため兵力が強大で税を納めなかった。その反抗的なることを聞いた公が忠節を説いたため、平盧軍は従順になった。翌年に都に呼び戻されて内侍となり以前の通り宣徽供奉官となった。
 呉元済が淮に拠って叛くと官軍が遣わされたが、途中でぐずぐずして進まず、このままでは敗退する恐れが出てきた。このため使臣を遣わして説得する必要が出て、公が本官のまま淮西行宣慰使となった。到着すると帝の恩沢を説いて士気を上げ、さらに作戦を立てて戦果を挙げた。
 十五年(820)、雲麾将軍・右監門衛将軍に昇進して内外五坊使となり、上柱国の称号を賜り、南安県開国男に進封されて、食邑三百戸となった。その年の冬に冠軍大将軍を加えられ、長慶の初め(821)に五坊使は辞任して、南安県開国子に進封され、まもなく侯爵に昇格となり食邑一千戸となって、宣徽供奉官以下は元のままとされた。
 二年(822)に鳳翔監軍使となり、開国公に進封され食邑は千五百戸となった。鳳翔は統治し難い気風であったが、公は赴任すると、車から降りて直接兵たちを慰撫したため、兵たちは畏怖し民衆は懐いた。
 宝暦二年(826)に都に戻されて宣徽供奉となり、郡公に進封されて食邑二千戸となり、まもなく鄂岳監軍使となった。鄂岳は荊楚に通じ湖湘に接する要地で、安定して富も蓄積されていたが、兵は弱く民も怠惰になっていた。公は平盧での経験を踏まえて職務に励み、兵を強化した。
 太和元年(827)に都に戻って宣徽供奉官となり、内坊典内侍省に転じ、まもなく右神策軍副使を拝命した。公は着任すると兵たちを引き締めて規律を教え込んだ。二年に右領軍衛将軍・内外五坊使になり職務を遂行するうちに、隴では農業が困難であると知り、百隊を選んで開発に当たった。六年(832)に内侍知省事となって元の職はそのまま、翌年には大盈庫に転じて染坊を領し、知省事はそのままであった。その後、飛龍使となり、九年(835)五月には左神策軍中尉兼左街功徳使を拝命した。帝の爪牙となるよう良く兵を訓練して、寛大ではあるが威を失わず、簡略にしながら手は抜かず、熊をも恐れさせる勇を持ちつつ手には六韜を持ち、温情を以って接したので兵たちは敬服した。その後、左驍衛将軍に転じた。
 鄭注が陰謀を廻らし、李訓がこれに加担して、偽りの奏上を相次いで成し、さらには帝の身柄を手中に収めて謀叛を起こそうとするまでに至った。公は機先を制し禁中の兵を率いて謀叛の計画を挫くと、帝を保護した。そして首謀者を特定しその者だけを捕縛した。その他の扇動された者のうち、改心しようとしなかったり童子のように頑なに行いを改めようとしない者たちはそのまま処罰された。天網恢恢というもので国の法により処罰された。これより国家は平穏となり内外協調するようになった。(甘露の変)
 これは忠義心に天が味方したものであろう。朝廷でこのときの功が審議されて、公はその第一とされ、特別に詔が下り、中尉・知省事はそのままで特進・本衛上将軍を加えられた。
 まもなく驃騎大将軍に昇進し。開成五年(840)に開府儀同三司・左衛上将軍を加えられて、楚国公に封ぜられ、食邑は三千戸、実封は三百戸となった。会昌元年(841)にはさらに実封二百戸が加えられて観軍容使に昇進し、左右三軍の指揮を兼任した。
 公はいつも幸福の中に災いが潜んでいるのではないかと心配し、過大な昇進に引退を考えていた。三年(843)夏に病となって治らなかったため、以前から考えていたように実務の無い職に移ることを願って内侍監となったが、将軍・知省事はもとのままであった。その後、たびたび辞職を願い出たため、本官を以って致仕となり、その年の六月二十三日、広化里の私邸で薨去した。享年六十三。
 帝はこれを悼んで二日間朝政を停止し、揚州大都督を追贈した。公は弱冠より七代の皇帝に仕えた。
 元和年間に王承宗が叛旗を翻したが、盧従史は密かにこれと結びついた。憲宗は護軍中尉の吐突公統に討伐を命じ、吐突公統は盧従史を陣に誘い出すと捕縛して朝廷に送った。このとき公はちょうど陣中にいてこの計略を助けた。
 四年正月二十三日に万年県寧安郷鳳棲原社季村に帰葬し、夫人の安定胡氏が祭った。夫人は故開府儀同三司・検校太子賓客兼御史大夫・贈戸部尚書の胡承恩の娘であり、名門同士の婚姻で、公の地位が高まると共に累封されて魯国夫人になったが、壬戌歳に公に先立って没した。
 子息は五人。長男は宣徽使・銀青光禄大夫・行内侍省内給事で紫金魚袋を賜った従広。次男は光禄大夫・検校散騎常侍・持節曹州諸軍事・守曹州刺史兼御史中丞・上柱国南安県開国公食邑一千五百戸の亢宗。三男は閤門使・朝散大夫・行内侍省内府局丞で緋魚袋を賜った従源、四男はフン(分におおざと)寧監軍使・中散大夫・行内侍省内侍局丞で緋魚袋を賜った従渭、五男の従ヨク(さんずいに異)はまだ幼い。


 なお、 小野勝年氏の「知玄と圓仁 : 「入唐求法巡禮行記」研究の一節」には、排仏派の武宗に対して、仏教信者の仇士良がどうにかして抑えようとしていた様子が論じられていて、結局、会昌の廃仏が決行されたのは仇士良の没後になります。

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