Language

  • 日本語
  • English
  • 简体中文
  • 繁體中文
  • 한국어

Translated by machine

投稿記事

2020年 11月の記事(9)

ナントカ堂

ナントカ堂 2020年11月29日 00:30

『旧五代史』食貨志冒頭

 前回、『旧五代史』を出しましたが、『旧五代史』で気になることが一つ。
 食貨志冒頭にこのような文があります。


 後梁の太祖が国を建てたころは、黄巣の大乱の影響が残っていた。当初は夷門の一鎮しか領有していなかったが、外には厳戒態勢を取り、内には荒野を開拓し、勧農して租税や労役を少なくした。士は戦に苦しんだが、民の負担は楽であった。このため二紀(二十四年)のうちに霸業を達成したのである。
 末帝の代になって荘宗と河上で対峙すると、河南の民は物資の運搬で苦しめられたが、それでもまだ流亡するには至らなかった。税が軽かったことと土地に愛着があったためである。
 荘宗が後梁を滅ぼすと、吏人の孔謙を租庸使に任じた。法は苛酷で下々から収奪し、多くを集めて上納したので、民の財産が尽きても、兵たちは食に事欠くようになった。これに加えて兵乱と、それが原因の飢饉により、三、四年にして殺されるに至った。税と労役が重く天下の人望を失ったからに他ならない。


 大概、朱全忠が悪玉で李存勗が善玉として描かれることが多く、社会の上層部に対する行いもよろしくない朱全忠ですが、民衆視点から見ると、朱全忠は腐敗した王朝を倒して民を楽にした人物で、李存勗は腐敗した王朝を復活させ民を搾取して享楽に耽る人物として映ったことでしょう。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
ナントカ堂

ナントカ堂 2020年11月28日 06:14

宋太宗家臣団⑤

 今回は『宋史』巻二百七十六の最後、安忠です。


 安忠は河南の洛陽の人である。祖父の安叔千は、後晋に仕えて各地の節度使を歴任し、太子太師を以って致仕した。父の安延韜は左清道率府率となった。

 安忠は立派な体格であったが、書を知らず、多少姓名が読めるだけであった。即位前の太宗に仕えること二十年、太宗が即位すると、東頭供奉官の地位を与えられて、弓箭庫を管掌した。その後、内弓箭庫副使・西京作坊使に昇進し、翰林司・内衣庫・医官院を管掌し、屯を率いて雄州に駐屯した。

 曹彬が契丹と戦って拒馬河で敗れると、安忠分は砦から一部の兵を出して国境沿いに配置し、敵の遊撃隊に備え、更に河を浚って深めその土で城壁を固めた。
 まもなく威虜軍に異動となり、太宗が鎮定路に陣を敷くと左の陣取り、東上閤門使に抜擢された。大将の李継隆・田重進・崔翰と共に祁州の北まで契丹軍を追い、詔書にて褒められた。
 端拱元年(988)に高陽関屯兵護軍に移り、契丹が鎮・定を攻めると、崔翰と共に防戦した。傅潜が瀛州に陣を置くと、安忠は城の西面に陣を敷いた。
 二年に寿州知州に異動となり、翌月に貝州に異動となった。貝州では劇賊十二人が長い間民を悩ませていた。安忠はこれらを尽く捕縛した。

 淳化四年(993)、判左金吾街仗となった。王賓が揚州知州として地方に出ると、安忠が代わって左龍武軍大将軍となった。このとき安忠は泣いてこう願った。
 「諸衛の将軍は朝廷の外に居て、帝の側近くに居られません。元の役職に戻されるよう願います。」
 太宗は笑って「禁衛の官はいにしえよりのもので、大将軍は三品官である。汝は朝廷の序列を知らないようだな。」と言い、願いの通りにした。
 まもなく東上閤門使に復して、淮南諸州兵馬鈐轄に充てられた。
 至道三年(997)、太宗没年)に病となって郷里に戻ることを願い出、泗州まで来たところで卒去した。享年六十四。
 天禧元年(1017)に孫の安惟慶を取り立てて殿直とした。


 上記にある安忠の祖父の安叔千は、『旧五代史』巻百二十三に伝があります。


 安叔千は沙陀三部落の種である。父の安懐盛は後唐の武皇に仕え、驍勇を以って聞こえた。安叔千は騎射を習い、荘宗が河南を平定するのに従軍して奉安部将となった。
 天成の初め(926)に、後唐が定州を攻めると、先鋒都指揮使に任命され、王都が平定されると秦州刺史の地位を与えられて、涿と易の政務も任された。
 清泰の初め(934)、契丹が雁門に攻め込むと、安叔千は石敬瑭(後晋の高祖)に従って迎え撃ち、敗走させて、検校太保・振武節度使に昇進した。
 石敬瑭が即位すると同平章事を加えられ、天福年間(936~943)に邠・滄・邢・晋の四鎮の節度使を歴任した。
 安叔千は粗野で文字が読めず、当時の人々から「安没字」と呼ばれ、話す内容はまるで文字の無い碑文のようで、ただ外見だけを取り繕っていた。
 開運の初め(944)、後晋の朝廷が全軍で契丹を攻撃しようとすると、安叔千は行営都排陣使に任命され、まもなく左金吾衛上将軍に改められた。
 契丹軍が汴に入ると、百官は赤崗まで来て出迎えた。契丹主は高い丘に登って陣を敷き、漢官を慰撫した。安叔千の番となり契丹語で話しかけると、契丹主は言った。
 「汝は安没字ではないか。卿が邢州にいたころ、遠路誼を通じたので我らはここに至った。汝はそのままの地位にいるように。」
 安叔千は拝礼して退出し、まもなく鎮国軍節度使の地位を与えられた。
 後漢の建国後、交替して都に戻った。以前に率先して契丹に服従したことを常に恥じ、しばらくして太子太師の地位を与えられて致仕した。まもなく許しを得て洛陽に帰郷し、広順二年(952)冬に卒去した。享年七十二。詔により侍中を追贈された。


 この他、沙陀系の人物としては、楊承信(『宋史』巻二百五十二)・郭従義(『宋史』巻二百五十二)・安守忠(『宋史』巻二百七十五)などが挙げられます。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
ナントカ堂

ナントカ堂 2020年11月24日 21:59

宋太宗家臣団④

 今回も『宋史』巻二百七十六からで、宣祖(太祖の父)の代から仕えている王賓です。


王賓

 王賓は許州の許田の人である。慎み深い性格で、十数歳で宣祖に近侍し、大人になると騎射を得意とした。太宗が泰寧軍節度使となると、太祖は王賓を府の補佐役に就けた。
 太平興国の初め(976)に東頭供奉官・亳州監軍となった。王賓の妻は気性が荒く、王賓はこれを制することができなかった。当時、監軍は家族を連れて任地に赴いてはならないことになっていたが、王賓の妻は勝手に亳州まで来た。王賓がこれを報告すると、太宗は王賓の妻を呼び出し、衛士に命じて押さえつけさせ、杖で百回打ったうえで、忠靖軍の兵の妻とした。王賓の妻はその夜死んだ。王賓は儀鸞副使に昇進し、内酒坊を領した。

 太原遠征に従軍し、更に范陽遠征にも従軍して、彰信節度使の劉遇と共に城の東面を攻めた。
 五年に太宗が北漢に親征すると、車駕北巡、都の留守を預かる王仁贍の副として大内都部署となった。
 七年、洛苑使に改められた。このころ汴の漕運が滞り、兵への食糧支給も十分になされなくなっていた。そこで太宗は別に水路発運司と陸路発運司を創設した。王賓に心を尽くして事に当たるよう命じて演州刺史を領させ、儒州刺史の許昌裔と共に発運司の仕事に従事させた。四年間で目標以上の利益を上げ、人々から才能ある人物と尊敬され、まもなく右神武将軍に改められた。

 黎陽は水路と陸路の交通の要衝で、禁軍一万以上が常駐していた。そこで度支使の張遜の推薦により、王賓が黎陽軍護軍となり黄御両河発運事を兼領して、まもなく黎陽団練使を領した。
 王賓が黎陽に通利軍を設置するよう進言すると、知軍事に任命された。王賓は着任すると、公署と郵館を設け、備品も全て揃えた。通利軍大将軍を加えられて、毎年別に銭二百万を支給された。まもなく河北水陸路転運使を兼ねた。

 貝州に兵がいたが居住施設が無く、分かれて邸店に仮住まいしていた。王賓は空き地を選んで千二百以上の家を建てて兵たちを住まわせたため、お褒めの詔が下された。その後、都に召されて右羽林大将軍・判左金吾兼六軍諸衛儀仗司事となった。
 淳化四年(993)に揚州知州兼淮南発運使として地方に赴任し、その後、異動となって通許鎮都監となった。
 至道元年(995)に七十三歳で卒去して、通例より多くの弔意の品が贈られた。

 王賓は宣祖・太祖・太宗に六十年近く仕え、最も古くから仕えていたため特別に恩寵を受けた。数千万の賜り物を受けたが全ては仏寺に寄進した。
 黎陽に居た頃、視察中に古寺の跡を見つけると、即刻金銭を奉納して修築した。このとき地面を一丈あまり掘ると、いくつかの石仏と石碣が見つかり、そこに王賓との姓名が記されていた。王賓が奇跡として報告すると、太宗は寺に淳化寺との名を賜り、印刷した大蔵経一式を賜り、銭三百万を与えて運営資金とした。


 太宗って、上記の王賓の妻の件の他にも、北漢の劉継元が降伏した後に、官僚や金持ち連行してから太原に火を放って住民焼き殺したり、結構やることがエグイ。
 王賓の他に宣祖時代から仕えていた人物に、巻二百八十の李琪がいます。


李琪

 李琪は河南の伊闕の人である。軍事の家に生まれ育ち、機会を得て宣祖の側に仕えた。太祖の側近となると、能力を認められて家政を任された。太祖が皇帝となると地方官に任じられたが、太宗が開封尹となると、これに仕えるよう命じられた。これより累進して効忠都虞候・開封府馬歩軍副都指揮使となり、富州刺史を領した。自ら求めて拝謁した際、「太祖の代から仕えているのに都に邸宅がありません」と言ったため、太宗は仮に役宅を与えた。

 李琪は粗野な性格で、三代に仕えたが、無作法なのを改めなかった。士卒を派遣して関や橋を守備させるに当たり、常に贈り物を期待して、その多寡で辛い部署か楽な部署かの配属を決めた。太宗はこれを知ると、李琪を屯衛大将軍に改めたが、領郡はもとのままとした。そのとき太宗は言った。
 「私は、李琪が過失を犯さない地に赴任させようとのみ考えている。」
 そして左武衛大将軍を加えた。

 景徳年間(1004~1007)、老齢と病のため、五日に一回帝に私室で拝謁するのみとなるよう求める上表して、まもなく台諌に糾弾され、通常の朝礼に参加するよう命じられた。古くからの臣であることを考慮した真宗は、特例として引退させてこれまで同様の俸禄を与えることとした。
 大中祥符元年(1008)、八十四歳で卒去した。


 台諌=文官も、相手が武官だと八十歳の老人に対しても容赦ないな。
 さて同様に幼少の頃より仕えていたのが王延徳(巻三百九)で、この人も真宗時代まで仕えています。


王延徳

 王延徳は開封の東明の人である。曾祖父の王芝は濮陽令、祖父の王璋は相州録事参軍であった。
 後晋の末に契丹が攻め込むと、父の王温は地元の勇猛な者を率いて郷里を守ったため、人々から感謝された。宣祖は畿甸の兵を指揮すると、王温と親密となった。
 王延徳が子供の頃、その慎み深い態度を気に入った宣祖は、召して側近くに仕えさせた。太宗が開封尹となると、身辺警護隊長の地位に就け、厨房を専管させて、最も信頼した。

 太平興国の初め(976、太宗即位年、12月のみ)に御厨副使の地位を与え、数か月後には正使に昇進した。
 太原遠征に従軍し、まもなく尚食使を加えられ、浚儀県の寿昌坊に一区画分の邸宅を賜った。
 まもなく薊州刺史を領して、武徳司を兼掌し、後に皇城使に改められて、御輦院と左蔵庫を管掌した。王延徳は五つの印を領し、拝謁の際に減らされることを強く求めて、左蔵と御厨を免ぜられた。
 八年、親王諸宮使を兼任することとなった。
 王延徳は慎み深い性格で、古くからの臣であったため、拝謁のたびに宮廷外の事を尋ねられた。
 端拱の初め(988)に薊州団練使を領した。
 淳化年間(990~994)、王延徳・王継恩(李順の乱を平定した宦官)・杜彦鈞(杜太后の甥)は昇進すべきところ、既に使職としては最上位に在ったため、特に昭宣使を新設して、王延徳らをこれに任じた。
 至道二年(996)、平州防禦使を加領された。

 真宗が即位すると、懐州に改領となり、太宗の埋葬の際に、沿道の物資の供給の責任者となった。
 咸平の初め(998)に華州知州として赴任することとなった。謝礼のため拝謁した日、昭宣使を免じられるよう求めて、容れられた。昭宣使のままで知州となれば、昭宣使の地位が軽く見られることと、俸禄が多すぎるためである。
 真宗が大名に行幸すると、王延徳は東京旧城都巡検使となった。
 翌年、中風のために引退を願い出ると、郷里に帰ることを許され、その年の冬に六十四歳で卒去し、邕州観察使を追贈された。

 王延徳は任官するたびに、出来事を書に纏めることを好んだ。御厨を掌れば『司膳録』を、皇城司を掌れば『皇城紀事録』を著し、郊祀に従って行宮使となれば『南郊録』を、詔を奉じて宮殿を建てれば『版築記』を、太宗の棺を護送すれば『永熙皇堂録』と『山陵提轄諸司記』を、郡を治めれば『下車奏報録』を著した。史官が太祖と太宗の『実録』を編纂するよう命じられると、国初の出来事の多くが王延徳から聞き取ったものである。また王延徳は『太宗南宮事跡』三巻を上程した。

 子の応昌は荘宅使・端州団練使となった。


 上記の「太宗の埋葬」、本文は「永熙復土」なんですよ。儒者に文章書かせると、こういう相手の知識を試すような書き方するから嫌い。
 巻三百九には同姓同名の王延徳が載せられています。同じく太宗が晋王であった頃から仕える人物ですが、こちらは高昌国に遣わされて『西州程記』を著し、その後、地方官を歴任した人物です。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
ナントカ堂

ナントカ堂 2020年11月22日 11:35

高俅について少々

前回少し触れた高俅について少々

 高俅については何冠環氏の『北宋武将研究』に収録されている「《水滸伝》第一反派高俅事績新考」に詳しいのですが、その中で気になったのは

 高俅は劉仲武の部下として対西夏戦で戦果を挙げたこと
 遼への副使となり、西夏を裏で援護する遼の態度を責め、「西夏国境の宋側の拠点を割譲するように」と遼が求めたのに対し、拒絶して交渉決裂となったこと

です。

 高俅の死後、一族の多くが金軍に連行されましたが、子のうち高堯明と高堯咨が難を逃れて南宋に仕官し地方官を歴任しました。
 また高俅の弟の高伸の子孫は、一部が南方に逃れ、寧宗の時代に貧困して、高俅が徽宗から賜った書帖を、岳飛の孫の岳柯に売っていることがわかっています。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
ナントカ堂

ナントカ堂 2020年11月22日 10:38

宋太宗家臣団③

宋太宗家臣団③

 引き続き『宋史』巻二百七十六から尹憲です。


尹憲

 尹憲は并州の晋陽の人である。開宝年間(968~976)に晋王であった太宗に仕え、太宗が即位すると殿直に抜擢されて延州保安軍使となり、その後、供奉官に改められた。
 太平興国四年(979)に護府州屯兵として、鄜州の三部族と共同で嵐州を攻め、千人あまりの敵を破って、偽知嵐州事の馬延忠を捕え、黄河沿いの諸砦を攻め落とした。その功により西京作坊副使に転じた。
 朔州に攻め入り、寧武軍を破って、その軍使を殺し、人馬や武器を大量に獲得した。

 その後、夏州護軍に改められ、供備庫使に転じた。三汊義・醜奴荘・岌伽羅膩葉の十四族を殺し、その首領を誘降したため、何度もお褒めの詔書が下された。
 雍熙の初め(984)に夏州知州となると、地斤沢で李継遷が率いる軍を破った。李継遷は遁走し、四百帳あまりを捕虜とした。
 このとき「支配下に入った部族の一部を移住させて代わりに騎兵を配置し、これを平砦と号して万一の備えとするように」と進言して、許可する詔が届けられた。
 まもなく蘆関と南山の野狸族など数部族を殺したため、諸部族は乱を起こした。交替となって都に戻り、洪州巡検となって、まもなく莫州屯兵護軍に任命された。

 三年(986)、瀛州知州兼兵馬鈐轄に任命されて富州刺史を領し、東上閤門使に昇進した。
 端拱二年(989)に滄州知州となり、その後、邢州に異動となったが、どちらも鈐轄を兼任した。
 淳化の初め(990)に王文宝と同時に四方館使に任命され、鎮州屯兵護軍と定州屯兵護軍となり、貝州知州に改められて、高陽関兵馬鈐轄に異動となった。
 五年に定州知州となったが、兵馬部署の王栄とは仲が悪かった。王栄は元から粗暴で、ある時怒りに任せて尹憲を殴り倒した。尹憲は気分が悪くなり病となって、数日後に卒去した。享年六十三。


 最後に出て来る王栄は巻二百八十に伝があります。


王栄

 王栄は定州の人である。父の洪嗣は後晋に仕えて、定州の十県の遊奕使となった。王栄は若いころから膂力があり、瀛州の馬仁瑀に仕えて雑役夫となった。
 太宗が晋王の頃に機会を得て側近となり、即位すると殿前指揮使に任じられ、やや出世して本班都知・員僚直都虞候となった。
 棣州で盗賊が発生したが、州兵は捕縛することができず、王栄が討伐に向かい捕縛した。御前忠佐馬歩軍都軍頭を加えられ、懿州刺史を領した。
 秦王の廷美から慰労の宴会を受けて罪に問われ、濮州馬軍教練使として地方に出されたが、任地に赴く前に、馬仁瑀の子が「王栄は秦王の信頼する下吏と仲が良く、『私はまもなく節度使に成れるだろう』と妄言を吐いた」と告発したため、罪を問われて官籍より除名され、海島に流された。

 雍熙年間(984~987)に呼び戻されて副軍頭となり、端拱の初め(988)に員寮左右直都虞候兼都軍頭に改められ、再び懿州刺史を領した。累進して龍衛都指揮使となり、羅州団練使を領した。
 兵を率いて遂城を守っていると、敵の騎馬隊が襲来したため、撃破し、千人以上を捕虜とした。都に召されて侍衛馬軍都虞候・峰州観察使を拝命し、定州行営都部署となって地方に赴任した。
 王栄は粗暴で、その行いは道理から外れていた。勝手に官有地で野菜を作り、公銭を出し惜しみして将士の労に報いなかった。また老齢の母を引き取ろうとせず、僅かな仕送りしかしなかった。太宗はこれを聞いて怒って言った。
 「忠臣は孝子の門より出る。王栄がこのような態度で親に仕えているのであれば、追放されてからも改心しなかったのであり、側近として置いておくわけにはいかない。このままでは後晋の帝が張彦沢を取り立てて悪事を助長したことの二の舞となる。」
 即刻、詔を下して現職を罷免し、叱責してから、右驍衛大将軍の地位を与えた。

 寄班供奉官の張明が定州の護軍となり、王栄の不法行為を見つけると規律により正した。王栄はたびたび攻撃されることを嫌っていた。荘宅使の王斌も監軍として定州にいたが、以前から王栄とは仲が良く、「張明は王栄を罪に陥れようとしている」と考え、逆に張明の罪を論い報復しようとした。これを受けた太宗が枢密院に罪状を調べさせると、全て虚偽であった。太宗は怒って側近に言った。
 「張明は低い身分から身を起こし、蹴鞠を以って朕に仕え、清廉で慎み深く、同僚に対しても同様だ。罪も無く処罰するわけにはいかない。王斌は王栄と親しいため、事実を曲げて張明の罪を奏上し、処罰させようとした。不当な事で王栄を満足させようとし、朕を騙してこれからは好き勝手に振舞えるよう企てたのである。これは王栄を悪事に引き込むことでもあり、主君に対しても友に対しても誠意が足りない。国家の賞罰の権限は私すべきものではなく、将帥の職は裨校と同列に論じられるものではない。朕が張明に味方して王栄を棄てるなどと言うことはあり得ないことであり、ただ真実が知りたいのだ。」
 そして張明は慰労金を賜り、王栄は右羽林軍大将軍に昇進した。

 真宗が即位すると、獎州刺史を領し、まもなく濱州防禦使の地位を与えられ、涇原儀渭駐泊部署に昇進した。
 咸平二年(999)、真宗が北征すると、陣に召されて貝冀行営副都部署となり、真宗が都に戻ると、再び涇原に戻された。
 翌年、霊武に馬草と兵糧を贈るのを援護したが、気配りが足らず十分に見張りを出さなかったため、積石に到着すると、夜中に蕃に攻撃された。陣は大混乱となって、部隊は全滅した。法に則れば誅されるべきところ、死を免じて、官籍から除名の上で均州に流した。六年に復帰して左衛将軍となった。

 景徳の初め(1004)に権判左金吾街仗司事となった。真宗が澶淵で閲兵すると、契丹の騎兵の遊撃隊が黄河を渡って濮州の境まで来たので、王栄を黄河南岸都巡検使に任命し、鄭懐徳と共に行在から龍衛兵を指揮して契丹軍を攻撃するよう命じた。このとき既に滄州部署の荊嗣が命を受け、先に麾下を率いて淄・青に陣を張っていた。そこに王栄らを遣わして合流させ攻撃させたのである。
 二年、左神武軍大将軍に昇進し、恩州刺史を領した。郊祀の際に、左龍武軍に改められ、達州団練使を領した。
 大中祥符年間に左衛大将軍に昇進し、昌州防禦使を領した。六年(1013)に太清宮で祭祀があると、河南府駐泊都監となった。
 九年(1016)に七十歳で卒去し、子一人に官職が与えられた。
 王栄は弓矢が得意で、強弓を引き屋根に射たところ、矢が木に数寸刺さった。ここから当時の人は「王硬弓」と呼ぶようになった。


 上記を見て思うことが、太宗もなんだかんだ言って王栄に甘いような気が。あと蹴鞠の相手から登用されても、張明と高俅では史書での評価が全く異なりますね。

 さて王栄の二つ名は「王硬弓」です。他に楊業の「無敵」や姚内斌の「姚大蟲」が有名ですが、以下の人々も異名を持っています。

王彦昇:撃剣に優れていたため「王剣児」(巻二百五十)
王継勲:常に鉄鞭・鉄槊・鉄楇を用いていたため「王三鉄」(巻二百七十四)
尹継倫:顔が黒かったため「黒面大王」(巻二百七十五)
錢守俊:勇猛俊敏で以前に陂沢で盗賊をしていたため「転陂鶻」(巻二百八十)
張思鈞:太宗が「楼羅」と呼んでいたため「小楼羅」(巻二百八十)

また巻二百七十三の馬仁瑀伝には、兗州の群盜の首領の周弼が「長脚龍」と呼ばれていたとの記述があります。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
« 1 2
  • クリエイタータグ

最新の記事

月別アーカイブ

記事のタグから探す

限定特典から探す

記事を検索