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2017年 05月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2017年05月17日 23:28

錦衣衛の画家

現在鋭意製作中で完成にはもう少し時間をいただきたく、時折閲覧されている方がいらっしゃるので、今作っているものとは関係ありませんが小ネタを一つ

1925年刊行の『東洋美術史』(大村西崖 著)のp.357にこうあります


明は宋のやうに翰林図画院と云ふ程の名はなかつたけれども、初めは武英殿に待詔を置き、後は仁智殿に画工を直せしめて、それに錦衣指揮、錦衣鎮撫、錦衣衛千戸、百戸等の銜を授けて奨励したから、やはり書院があつたわけで、おのづから一種の院体を成してゐる。


というわけで、明代の画家について知る際に一番初めに見る『明画録』から、錦衣衛の官職を授かった画家の記事を以下に


呉偉、字は士英、またの字を魯天、さらに字を次翁とする。江夏の人である。弱冠にして成国公に謁見し、諸公から小仙と呼ばれて、遂にはこれを号とした。弘治年間に仁智殿に供奉して錦衣衛百戸を授けられ、状元図章画を賜った。人物は呉道元に学び、筆に任せて描き、山石は斧で割ったようで、また奔放洒脱であった。

呉文英、処州の人。人物を得意とし、動きを描くに道理に適っていた。弘治年間に呂紀と共に両殿に供奉して同等に寵遇され、当時の人は小呂と呼んだ。人物を基礎としつつ雑画にも精通していた。弘治年間に画院に供奉して錦衣衛の官職を授かった。

商喜、字は惟吉、山水を得意とし、人物も描いて、その筆致は滑らかであり、虎の絵を最も得意とした。宣徳年間に召されて画院に入り、錦衣衛指揮使を授けられた。孫の祚は字を天爵といい、これもまた家法を伝えた。

王諤、字は廷直、奉化の人。山水を描き、初めに郷里の蕭鳳を師として、後に唐宋諸家に精力的に学んだ。奇山・怪石・古木・渓流を尽く精妙に描いた。弘治年間に仁智殿に供事して大いに寵遇された。当時帝は馬遠を大変好んでいたが、「王諤は現代の馬遠である。」と言って大いに称賛した。正徳の初めに錦衣衛千戸を授けられて図と書を賜り、当時の人は光栄なことだと思った。

郭ク、字は仁弘、号は清狂道人、泰和の人。科挙の勉強を止めて詩画に精力を注いだ。山水諸体で不得意なものは無く大変優れていた。呉偉・杜菫・沈周と画題を決めて技を競いこれらを下した。弘治年間に召されて都に行き、大物宦官の蕭敬から錦衣衛の官職を提示されたが、固辞した。李献吉は「平民でありながら誇らしい。」と言った。後に王陽明に従って遊学し、宸濠に求められて行方をくらまし終わる所を知らず。

朱端、字は克正、海寧衛の人。山水は盛懋、墨竹は夏センを師とし、花鳥共に巧みであった。正徳年間に仁智殿に所属して錦衣衛指揮使に就いた。図と書を賜り、当時の人は光栄なことだと思った。

劉晋は錦衣衛指揮使に就き、魚の絵を得意とした。子の節は父の画風を習得した。

林良、字は以善、広東の人。弘治年間に推薦されて仁智殿に入って供事し、錦衣衛指揮使に就いた。花や果実、鳥の羽を巧妙に描き、水墨を取って煙や波のようにして描いた。鴨や雁の生態をよく描き、樹木は力強い草書体のようで、余人の及ぶ所では無かった。

呂紀、字は廷振、号は楽愚、キンの人。初めに花鳥を辺景昭に学び、後に唐宋諸家から次々に学んで妙技に至った。弘治年間に林良と共に召されて共に錦衣衛の官職を授けられた。作画を命じられるたびに予想以上の出来であったので、大いに褒められた。鳳・鶴・孔翠の類や生い茂る花樹は燦然として人々の目を奪った。

馬時暘、名は暄で通常は字で呼ばれる。経史に広く通じて画を得意とした。弘治年間に召されて錦衣衛鎮撫を授けられた。

趙麟素は海塩の人。画を得意とし、正徳年間に仁智殿に属し、錦衣衛副千戸を授けられた。当時大変重んじられた。

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