ナントカ堂 2016/10/07 22:58

宦官世家

宦官の一般的イメージから童貫が武将をしていることに奇異の目を向けられますが、宋は建国当初から宦官が武将として活躍しています。以下は『宋史』に見られる武将として活躍した宦官のうち主だった者です。

『宋史』巻四百六十六「宦者伝一」

竇神宝:父が皇城使で、兄が左領軍衛大将軍、自身も北漢遠征時には鎧を着て城壁を登り流れ矢を受けたのを皮切りに、西夏や周辺民族の討伐に従事
王継恩:江南遠征に禁軍を率いて戦い、李順が乱を起こして成都を占拠するとこれを攻略。
閻承翰:李順の乱を平定。対契丹戦に従事。
秦翰:趙保忠の乱の際には計略を用いて自らの手で趙保忠を捕縛。王均の乱を平定。契丹や西夏との戦いに従事し、生涯に四十九箇所の傷を負った。
張崇貴:西夏が霊州を包囲した際に派遣され、以後その地に駐留。軍事のみならず西北の民族の習俗も良く知っていたので畏服された。
張継能:成都・陝西・番禺など各地に遠征

『宋史』巻四百六十七「宦者伝二」

楊守珍:書や史、兵家を学び、弓の名手で、使用人が通りかかったときに矢を射てもとどりに当てて称賛された。対契丹戦に従事。
韓守英:契丹との戦いで活躍。平穏になると、地元の民のために兵の削減を建言。
李憲:対西夏戦で宋軍が劣勢に立たされていたところを、皇帝から与えられた旗を掲げて士気を上げ勝利に導き、以後も西夏戦に従事。
王中正:十八歳のときに宮中で衛士が変を起こすと弓矢で応戦。勇気を称えられるも、その後、吐蕃戦に従事して戦果無し
梁従吉:西夏に応戦してその将を捕らえた。その後、寧州の反乱を鎮圧。霊武攻略中に重傷を負う。

『宋史』巻四百六十八「宦者伝三」

李祥:初めに内黄門となり、騎射の腕を見込まれて涇原儀渭同巡検となる。交阯遠征や対西夏戦に従事

上記のほかにも『宋史』「宦者伝」には、ほぼ宮中で働いていたり主に土木工事に従事してはいても一応武官職に就いている者もいました。これら宋代の宦官は養子を取ることが許され、その子が父の引き立てにより初めから優位な地位に就くことで、宦官がなかば世襲化する状態になっていました。こうした史料はあまり残されていないので、『宋史』からは有力な宦官の子が何かの官職に就いたことまでは分かるものの、その孫以降になると不明なわけですが、そのうち閻承翰については「宋初高級内臣閻承翰事蹟考」の分析により、閻承翰(947~1014)、養子・閻文慶(?~1038)、養孫・閻士良(1010~1063)、養曾孫・閻安(1077~1100)と四代に渡って代々養子を取って宮中の高官に上り、太祖から徽宗の代まで連綿と続く「世家」となっていたことが分かっています。

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