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2020年 03月の記事(5)

ナントカ堂

ナントカ堂 2020年03月20日 06:12

『朝鮮金石総覧』

前回『朝鮮金石総覧』を紹介しましたが、李朝時代の墓誌で高麗時代に根を持っている人物は
41コマ目「李挺墓誌」(『高麗史』九十九 李公升)
56コマ目「洪応神道碑」(『高麗史』百五 洪子藩)
70コマ目「趙光祖神道碑」(『高麗史』百十一 趙暾/百三十 趙暉)
72コマ目「許曄神道碑」/76コマ目「許琮神道碑」(『高麗史』百五 許キョウ(王に共)
85コマ目「閔純墓碣」/134コマ目「閔箕神道碑」(『高麗史』百一 閔令謨
285コマ目「李之蘭神道碑」(『高麗史』百十六 李豆蘭)

最後の「李之蘭神道碑」のみ性格が異なり、後に(英宗五十年/1773)子孫が立てたもので、子孫の事績も記されています

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年03月19日 20:10

「高麗史列伝(前期分)」出ました。

新刊出ました。
設定をちゃんとしなかったため自動反映されないので自分で告知を出します
それはそれとして製作中に思ったことを少々。

今回一応『高麗史史籍概要』(甘粛人民出版社)というものが手元にあったのですがいまいち生かせませんでした。
中で紹介されている『壮節公申先生遺迹』と『壮節公申先生実紀』(体験版でも見ることができる列伝五にある申崇謙に関する書です)が気になったのですが、日本には無いもののようで見られず仕舞い。
でも『高麗史史籍概要』の紹介文をを見ると、十五歳で儒科状元とか書いてあって、
いや、新羅末にはまだ科挙やってないし、中国は五代十国時代の戦乱だし、どうも子孫が事績を盛っているみたいです。
(日本に無くて見られなかったと言えば、李朝の宦官の族譜である『養世系譜』というのも内容が凡そしか分からなくて残念です)
『高麗史』ではチョイ記事扱いの申崇謙ですが、子孫が李朝の有力者なため上記の書が作られ、また国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる『朝鮮金石総覧』下の83コマに「申崇謙忠烈碑」があります。

高麗王朝500年の歴史で、初期の家系には断絶したものも多いのですが、申崇謙の家のように盛り返したものも見られます。
例えば列伝十の鄭沆の家系。
列伝十では鄭沆の子の鄭叙が配流されたままで終わっています。しかし『朝鮮金石総覧』下59コマの「鄭蘭宗神道碑」や63コマの「鄭光弼神道碑」を見るに李朝において有力者となっています。
また列伝七の河拱辰は、『東文選』巻百二十一に墓誌が載る河允リン(さんずいに隣のつくり)と巻百二十九の河崙が先祖であると記してあり、特に河崙は李朝建国の功臣として有名な人物です。

仁宗二十四年正月辛卯条に「王の病が重くなった。占うと李資謙の祟りであるという。そこで内侍の韓綽を遣わして李資謙の妻子を仁州に移した。」とありますが怨霊のようなものでしょうか。
でも李資謙はあまりかわいそうじゃなかったから大して発展しなかったようです。(伴善男みたいに)

列伝十一で仁宗が金正純の軍功を称えて
「その昔、唐の近臣の梁守謙は偏将となって裴度の幕下にあり、淮・蔡平定を助けた。今、汝の働きを見るにかの梁守謙と比べても劣らない。」
と言っていますが、梁守謙は宦官なのですが、その点は良いんでしょうか。
或いはこのころの人は両唐書を読まないで『資治通鑑』を拾い読みしているか何かの文集を読んでいるか、なのでしょうか。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年03月09日 20:33

崔ウと崔沆

崔怡(日本では通常崔ウ(王に禹)と崔沆は武臣政権の崔氏の2代目と3代目ですが、百度百科の記事を見ると気になることが

「崔怡」の記事に「精通書法」との項があって書に優れ
「崔沆」の記事に「個人作品」との項があって詩に優れていたようです。
特に崔沆の詩は『東文選』に誤って崔冲の詩として収録されているそうです。
私は漢詩の善し悪しが分かりませんが
東海の孔子と呼ばれた人物の作と間違えられるほどの出来のようです。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年03月08日 00:16

武臣政権雑考

次回作は鋭意製作中ですが3月上旬は無理そうです。申し訳ありません。
せめて3月中には出せるようにします。

そこでとりあえず雑考でもと

 高麗の庚寅の乱発生時を日本の保元の乱の頃と比べてみると
高麗の武臣の地位は低いと言われていますが、とりあえず正三品の上将軍以下武官は武臣が占めている状態です。
 これに対して日本だと近衛大将から少将まで貴族の子弟で占められていて
武家の棟梁の平清盛が安芸守、源義朝が下野守でかなり疎外されている気がします。
(その反面、官職の裏付けが無くとも家人を有することができるということなのでしょうが)


では武臣は正三品までしかなれなかったのかというとそうでもなく
列伝三十八の崔弘宰と列伝四十の拓俊京は平章事=宰相となっていますし



 文宗十年閏三月乙酉、守司空・尚書・右僕射致仕の高烈が卒去した。高烈は射を得意とし、しばしば軍功を立てて当時名将と謳われた。没するに及び聞いた者はみな惜しんだ。朝政を三日間停止し、百官に葬儀に参列するよう命じた。(世家七)

 宣宗八年十一月丙午、門下侍郎平章事の柳洪が卒去した。柳洪は武人にして『春秋左氏伝』及び兵家の秘訣に精通し、国に不安なことがあるたびに寝ても覚めても深く考え、古を引いて策を決した。その多くが的を射ていたため当時の人々から重んじられた。(『東国通鑑』巻十八)

 粛宗十三年閏九月、守司空・左僕射・判尚書兵部事の崔挺が卒去し、貞毅と諡した。文宗の時代に武士を選んだ時、崔挺は射を得意として選ばれた。東女真を討って功があった。(世家十四)


など、上将軍より上には文官職となっています。
 崔弘宰と拓俊京の経歴を見ると、女真討伐で功を挙げ、簒奪のために武力を欲した李資謙の協力者として地位を上昇させています。
 二人は結局上手く立ち回れずに失脚しますが、崔弘宰が見出して禁軍に入れた鄭仲夫が武臣政権を打ち立てます。
 虐げられた武臣の感情の爆発という面もあるのでしょうが、(武臣政権を正当化するために盛った話がそのまま史書に定着した可能性もあり)それを実現できるだけの力をつけてきていた、ということではないでしょうか。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年03月01日 06:03

新刊予告(高麗史列伝(前期分)

ブログのときは販売開始すると記事になっていたので
予告とかも自動的にこちらに何か出ると思っていたのですが出ないようなので書き込みます。
次回は「高麗史列伝(前期分)」です。
3月上旬の予定ですが中旬にずれ込むかも
体験版として列伝巻五だけ上げておきましたので
よろしければ見ていってください。

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