ナントカ堂 2020/03/08 00:16

武臣政権雑考

次回作は鋭意製作中ですが3月上旬は無理そうです。申し訳ありません。
せめて3月中には出せるようにします。

そこでとりあえず雑考でもと

 高麗の庚寅の乱発生時を日本の保元の乱の頃と比べてみると
高麗の武臣の地位は低いと言われていますが、とりあえず正三品の上将軍以下武官は武臣が占めている状態です。
 これに対して日本だと近衛大将から少将まで貴族の子弟で占められていて
武家の棟梁の平清盛が安芸守、源義朝が下野守でかなり疎外されている気がします。
(その反面、官職の裏付けが無くとも家人を有することができるということなのでしょうが)


では武臣は正三品までしかなれなかったのかというとそうでもなく
列伝三十八の崔弘宰と列伝四十の拓俊京は平章事=宰相となっていますし



 文宗十年閏三月乙酉、守司空・尚書・右僕射致仕の高烈が卒去した。高烈は射を得意とし、しばしば軍功を立てて当時名将と謳われた。没するに及び聞いた者はみな惜しんだ。朝政を三日間停止し、百官に葬儀に参列するよう命じた。(世家七)

 宣宗八年十一月丙午、門下侍郎平章事の柳洪が卒去した。柳洪は武人にして『春秋左氏伝』及び兵家の秘訣に精通し、国に不安なことがあるたびに寝ても覚めても深く考え、古を引いて策を決した。その多くが的を射ていたため当時の人々から重んじられた。(『東国通鑑』巻十八)

 粛宗十三年閏九月、守司空・左僕射・判尚書兵部事の崔挺が卒去し、貞毅と諡した。文宗の時代に武士を選んだ時、崔挺は射を得意として選ばれた。東女真を討って功があった。(世家十四)


など、上将軍より上には文官職となっています。
 崔弘宰と拓俊京の経歴を見ると、女真討伐で功を挙げ、簒奪のために武力を欲した李資謙の協力者として地位を上昇させています。
 二人は結局上手く立ち回れずに失脚しますが、崔弘宰が見出して禁軍に入れた鄭仲夫が武臣政権を打ち立てます。
 虐げられた武臣の感情の爆発という面もあるのでしょうが、(武臣政権を正当化するために盛った話がそのまま史書に定着した可能性もあり)それを実現できるだけの力をつけてきていた、ということではないでしょうか。

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