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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年02月23日 12:00

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年02月13日 22:54

海陵王小話③

『金史』巻百四の「楊伯雄」から。


 海陵王は政治に関する意見を強く求め、講論するたびに夜にまで至った。
 あるとき海陵王が「人君が天下を治めるに、何を重視すべきか。」と尋ねると、楊伯雄は「静なることを重視すべきです。」と答えた。海陵王は納得してそれ以上何も言わなかった。
 翌日、海陵王が「私は諸部や猛安を各地に移して駐屯させ国境を守らせている。昨夜の答えだと、これは静ではないことになるか。」と尋ねると、楊伯雄は「兵を移して各地に駐屯させるのは、南北を相互連携させるためで、国家長久の策です。静とは民を掻き乱さないことを言います。」と答えた。
 乙夜(10時頃)になって、海陵王が鬼神について尋ねると、楊伯雄は進み出て言った。
 「漢の文帝は賈生を召して、夜半まで向かい合って話をしてましたが、民の事を尋ねずに鬼神の事ばかり尋ねて、後世大いに不評でした。陛下は臣を愚か者と見なさず、天下の大計を尋ねられました。臣はこれまで鬼神の事を学んだことはありません。」
 海陵王は言った。
 「そうであっても答えてほしい。永い間疑問で夜も寝付けない。」
 楊伯雄は仕方なく言った。
 「臣の家に一巻の書があり、人が死後に生き返ることが記されています。そこに記されている設問で『冥界の官人は何を以って罪を赦すのか』とあり、答えは『汝は暦を一冊用意し、日中の行いを夜中に記せ。書くべきでないことは行ってはならぬ』とのことでした。」
 海陵王は居住まいを正した。

 ある夏の日、海陵王が瑞雲楼に登って納涼し、楊伯雄に詩を詠むよう命じた。楊伯雄の作った詩の最後にはこうあった。
 「六月にはこれほどの蒸し暑さが来るとは思わなかった。寒気も同様あらゆることは予測できない。」
 海陵王は喜びながらこの詩を側近に見せると言った。
 「楊伯雄は何事かを言うとき朕を戒めることを忘れない。人臣とはこうあるべきだ。」


 この辺り見ると儒教の影響を受けた知識欲のある良識的人物なんですけど、滅んだ人はボロクソ書かれるわけで。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年02月07日 11:16

金蓮川

 金蓮川はクビライが即位前に本拠地としていた所で、元代には上都となっていましたが、金代の人から見るとかなりの僻地だったようで、金の世宗が避暑に行こうとすると、梁襄がこのように反対しています。


 金蓮川は重山の北に在り、地には冷たい気が積もり、五穀は実らず、郡県も設置できず、いにしえより地の果ての荒廃した放棄地とされてきました。気候は大いに異なり、夏の盛りでも霜が降り、一日の寒暖差も激く、上京や中都とは大いに異なります。聖なる身が居る所としては最も相応しくない場所です。必要な物も遠路運ばなければならず、険阻な山を越えて費用は数倍かかります。
 またかの地に宿営した場合、兵や騎馬をあまり連れて行けず、主客入り乱れ、牛馬も集めづらく、略奪されれば追いかけて取り戻すことも困難なため、されるがままとなります。
 公卿・百官・衛士や富者は車帳に収容できますが、貧者は洞窟に宿泊せねばならず、輿台を担ぐ奴隷は必ずや困窮するでしょう。飢えても食糧を得られず、寒くても衣服を得られず、一人が病となれば、全体にまで感染が及びます。これでは罪無き者を刃にかけるのと何ら変わりありません。(以下略、『金史』巻九十六「梁襄」)

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年02月06日 00:32

郭子儀の子孫

 前回、郭子儀の子孫として郭企忠について記しましたが、『元好問集』巻二十八から別の子孫をご紹介いたします。


広威将軍郭君墓表

 貞祐の初め(1213)、中華は兵火に遭った。
 二年の春、兵は北に帰り、既に平陽は攻め落とされ、敵は太原に進軍して、西の六州に軍を分けた。このとき岢嵐には主将が居らず、同知軍州事の完顔昭武は君に城を守る計略を相談した。君は言った。
 「城を守るのは勿論良い事ですが、北の兵は長駆して、燕・趙・斉・魏は全ての城が壊滅しました。公は単独でこの地の兵を掻き集めようとしていますが、相手は強く多く、我らは弱く少なく、対抗できません。また急な事なので防衛のための機材も用意できません。たとえ準備ができても、他所から集めた兵は郷里に帰りたがり、街の住民を駆り立てても頼りにはなりません。兵法では、戦うことも守ることも出来なければ、ただ敵の鋭鋒を避けるのみ、と言います。既に敵の遊撃隊が領内に入っています。早く計画を立てなければ、後悔することになりましょう。」
 昭武は君の意見に従い、夜陰に乗じて老人と子供を兵に護衛させて西南の龍門寨に避難させた。北の兵が汾・石・嵐と次々と攻め落として皆殺しにしたが、ただ岢嵐だけは攻め落とせずに帰って行った。宣撫司が君の功績を評価して、嵐谷簿・摂録事に任じた。今に至るまで地元の人間は、一州の命が助かったのは君のおかげだとしている。

 君の諱は昌、字は子玉、姓は郭氏、代々岢嵐の人である。
 唐以来、忠武王の子孫は汾と晋の一帯に散居している。家譜は不明だが言い伝えは残っており、君はその子孫である。
 曽祖父の晏、祖父の興、父の詡の三代は民間人であった。しかし祖父以来、郷里では裕福で、任俠で気概を尊び、困窮者を救済することを喜びとした。かつて一日に緡銭一千を出して貧窮者に与えていた。このようにして数十年、代々陰德を積んでいった。
 君は弱冠にして法律を学び科挙を受けたが、二度上級試験まで行って受からず、遂には諦めた。明昌年間(1190~1196)に官制が改められ、良家の子で法理に明るく、言動も良いとして推挙され下吏となった。州県の官を歴任し、長年の功労により忠勇校尉の地位を与えられた。嵐谷簿から隩州知法、更に平陽知法となって、河東南路行元師府検法兼提領犒賞となった。興定元年(1217)に中央に召されて尚書左三部検法となり、嵩州知法に改められ、遂には行尚書六部主事となった。累進して広威将軍・汾陽県開国子・食邑五百戸となり。正大二年(1225)正月元日、五十八歳で嵩州の寓居で亡くなった。(後略)

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年01月25日 23:17

郭企忠(郭子儀の子孫)

 日本版wikipediaの「郭子儀」の項の「子孫」の欄に郭企忠が記されていないので『金史』巻八十二から以下に訳します。


 郭企忠、字は元弼、唐の汾陽王の郭子儀の子孫である。郭氏は郭子儀から郭承勲に至るまで、全て北方の節度使となった。唐末に郭承勲が遼に入り、子孫が天徳軍節度使を継いで、郭昌金の代になって副使に降格となった。

 郭企忠は幼くして父を喪い、母に仕えて孝行で慎ましやかであった。十三歳のとき母が亡くなると、その悲しみ方は成人のようであった。喪が明けると父の官職を継ぎ、左散騎常侍を加えられた。

 天輔年間(1117~1123)、金軍が雲中に至り、耶律坦を遣わして諸部を招撫した。郭企忠が来降すると、主将は郭企忠を同勾当天徳軍節度使事に任命し、領民を率いて韓州に移り住むよう命じた。
 太祖が会い、尋ねてその家系を知ると、大いに礼遇して白鷹を賜った。

 天会三年(1125)、宋討伐の際、郭企忠は西南諸部の番と漢の兵を率い、猛安となった。雁門攻略に従軍して、その地に駐留することとなり、桂州管内観察留後を加えられて、代州に鎮守した。

 翌年、賊徒の楊麻胡らが五台で数千の兵を集めた。郭企忠は同知州事の迪里と共に討ち平らげた。

 知汾州事に昇進した。当時、汾州は金に降ったばかりで、住民の多くが兵士たちに戦利品として連れ去られ、領内は閑散としていた。郭企忠は帥府に出向くと「親族や知人が代価を払えば元の地に戻れるよう許可を願います。」と強く求め、帥府は従った。まもなく元通りに住民が戻ってきた。

 石州の賊の閻先生が数万の兵で汾州城の城壁の前まで迫った。部下は城内で変事が起こることを憂慮し、万一に備えるよう進言した。郭企忠は言った。
 「私は汾人に恩恵を与えた。信じる以外に無い。」
 そう言うと吏民を率いて城を守った。ちょうど援軍が到着したので、内と外で同時に攻撃し打ち破った。

 六年に静江軍節度留後に改められ、その後、天徳軍節度使・汴京歩軍都指揮使に昇進し、累進して金吾衛上将軍となった。任期満了で権沁州刺史となり、着任一年あまりで卒去した。享年六十八。

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