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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年04月07日 02:48

狄青

 wikipediaの「狄青」の項に、狄仁傑の子孫が取り入ろうとして家系図を持ってきた逸話が記されていて、ちょっといい話になっていますが出典は『夢渓筆談』巻九です。
 で、せっかく本人が生前謙虚な人だったのに、墓誌を頼まれた王珪が狄仁傑の子孫ということにしています。以下『華陽集』巻四十七に収められている墓誌の一部です。


 碑臣が謹んで案ずるに、狄氏は周の成王が少子を狄城に封じたのに始まり、これに因んで氏とした。子孫は代々天水に住み、梁文恵公(狄仁傑)に至って唐代に大いに名を顕した。その子孫の一部が汾晋に移った。公から聞いたところではもともとは西河の人で、贈太傅の応之が公の曽祖父である。その子が贈太師の真、太師の子が贈中書令の普、その妻が兖国太夫人の侯氏で、公はその次子である。
 諱は青、字は漢臣。生まれつき立派な風貌で騎射を得意とし、若くして将帥の節を好み郷里で若い任侠の徒を多く従えていた。初め都に遊学して、兵として拱聖軍に属した。


 中盤は狄青の生涯についてですが有名なので割愛して、家族についてこう記しています。


 公の妻は魏氏で定国夫人に封ぜられた。
 男子は六人。長男の諒は殿班奉職となったが早くに亡くなった。次男の咨は西上閤門副使、三男の詠は内殿崇班・閤門祗候、四男の譓は内殿崇班、五男の説は東頭供奉官、六男の諌は内殿崇班で、説と諫も早くに亡くなった
 娘は二人いたが嫁ぐ前に亡くなった。
 孫の璋は左侍禁となり、璹はまだ幼い。


 墓誌が記された時点では生まれていないのでしょうが、孫に狄琉という人物がいて、『建炎以来繋年要録』巻百二十一の紹興八年七月己丑条にこうあります。


 故武功大夫・貴州剌史の狄琉に特に拱衛大夫・貴州防禦使を追贈し、家族五人に官職を与えた。狄琉は狄青の孫である。靖康年間に并代雲中等路廉訪使となり、太原陥落時に死んだ。家族が朝廷に訴えたため今回の追贈となった。


 つまり北宋滅亡時に金軍に攻められて死んだのです。

 私は未見ですが何冠環氏の『北宋武將研究』に『狄武襄公家譜』というものが紹介されていて、その中には六代目の子孫の狄彦視、八代目の子孫の狄瑜、九代目の子孫の狄士元が指揮同知となったとあるそうで、代々武門の家として続いたようです。

 なお『宋史』巻二百八十八「范雍」には「狄青は小校のときに、法に則れば斬罪になるところを、范雍は猶予した」とありますが、いったい何をしたのやら。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年03月29日 20:19

『大南寔録』「外国列伝 シャム」

 前回の高蛮(カンボジア)に続き、『大南寔録正編列伝初集』巻三十二より「暹羅(シャム=現在のタイ)」の項から、ラーマ1世が即位するまでを訳します。


 暹羅は古の赤土国で、後に二つに分かれた。一つを暹、一つを羅斛といった。暹は土地が瘦せて耕作に適さず、羅斛は地が平らで広く多くの収穫が得られたため、暹は常にこれを仰ぎ食料を給されていた。
 隋の時代に使者がその国に至り、国王の姓が瞿曇氏というのを知った。
 元初には常に入貢し、後に羅斛が強大となって暹を併合し、遂には暹羅斛国と称した。
 明初に再び入貢し、暹羅国王の印を賜った。暹羅という呼び名はここから始まった。
 隆慶年間に、隣国の東蛮牛が婚姻を求めたが断ったため、東蛮牛は恥じ怒り、大軍を発して暹羅を破った。王は自ら首を吊って死に、世子は捕えられて連れ去られ、以後、東蛮牛に統治されるようになった。その次子が王号を継いで、復讐心を燃やした。万暦年間に強大となり、東蛮牛を破って、真臘を降し、遂には諸蛮の覇者となった。

 本朝の睿宗の丙戌元年(1766)、緬甸が暹を破り、暹瘋王(原注:暹王は癩病となったため、国人は瘋王と呼んだ)とその長子の昭督其、次子の昭侈腔は真臘に、昭翠は河僊に逃れた。
 茫薩(原注:地名)の長の鄭国英(原注:またの名を生(訳注:タークシン)は清の潮洲の人である。父の鄭偃が暹に流寓して、茫薩の長となった。鄭偃が死ぬと、鄭国英が官職を継いで、丕雅(原注:暹の官名)と号した。暹に権力の空白が生まれたのに乗じ、挙兵してその地を奪い取り、自ら暹国王と称して、真臘に朝貢するよう求めた。鄭国英が暹王の家系で無かったため、匿尊は拒否した。
 己丑四年(1769)、暹王の鄭国英が奔麻(原注:人名)に兵を指揮させて、真臘の僞王の匿嫩を帰国させた。爐塸に到着すると匿尊と戦闘となり、敗れて住民を連れ去った。
 辛卯六年、昭翠が河僊に居たため後顧の憂いとなることを恐れた鄭国英は、兵を出して河僊を攻め落とした。鄚天賜は鎮江に逃れ、暹昭科(原注:官名)の陳連(原注:人名)がこれを追った。ちょうど龍湖営留守の宋福洽の援軍が到着したため、暹軍はすぐに引き返したが、誤って川に入った。宋福洽の軍がこれを追撃し、三百あまりの首級を挙げた。陳連は船を棄てて兵を率い河僊に戻ろうとしたが、東口道該隊の阮有仁がこれを迎え撃ち、暹軍の半数以上が死んだ。鄭国英は陳連を河僊に留めて守らせ、自らは兵を率いて直接真臘に向かった。匿尊は出奔したので、鄭国英は匿嫩を真臘王に立てた。ここに暹軍は南栄を拠点とし、我が方の藩鎮を狙う構えを見せた。

 壬辰七年、統率の阮久潭と参賛の陳福成が兵を率いて前江から、宋福洽は後江から進軍した。潭以壬瀝(原注:真臘の官名)の最(原注:人名)は先鋒となり、南栄で暹軍を打ち破った。鄭国英は河僊に、匿嫩は芹渤に逃亡して、匿尊は王に返り咲いた。鄭国英は河僊に着くと、鄚天賜に書状を送って和を求めたが、鄭天賜は拒否した。鄭国英は陳連に河僊の守備を委ね、自らは兵を率いて鄭天賜の子女と昭翠を捕えて帰国し、まもなく昭翠を殺した。
 癸巳八年、睿宗は密かに鄭天賜に、暹に人を遣わし講和を名目として動静を探るよう命じた。鄭天賜は舎人の鄭秀に書状と礼物を持たせて暹に遣わした。鄭国英は大いに喜び、捕えていた鄭天賜の子女を送り返した。陳連は召されて帰国した。

 丁酉十二年、僞西の乱が起こり、尊室の春と鄚天賜が暹に逃れて援軍を求めた。暹人はこれを厚遇して留めた。

 世祖高皇帝の戊戌元年(1778)、嘉定を取り戻した。
 六月、該奇の劉福徵を暹に遣わして修好し、同時に尊室の春や鄚天賜らの消息を探らせた。
 庚子又元年(1780)六月、再び該奇の参と静(原注:二人の名)を暹に遣わして修好した。
 このころ暹の商船が広東から帰国する途中、河僊の外洋まで来たところで、留守の昇(原注:姓は不詳)に殺され、貨物を全て奪われた。暹人は怒り、遂には参と静を投獄した。更に真臘人の逋翁膠が暹にこう讒言した。
 「嘉定より密書が送られ、尊室の春と鄚天賜が内応して、望閣(訳注:バンコク)を占拠しようと計画しています。」
 暹人は大いに疑い、二人も捕えて尋問した。鄭天賜は自害し、尊室の春と参・静、鄭天賜の一族五十三人が全て殺された。我が国の居留民も全て辺境の地に移住させられた。

 辛丑二年十月、暹がその将の質知(訳注:後のラーマ1世)と芻癡(原注:二人は兄弟)を差し向けて高蛮を攻め、匿印がこれを報告した。
 
 壬寅三年(1782)正月、世祖は掌奇の阮有瑞に兵船を指揮させ胡文璘と共に高蛮に援軍に向かわせた。軍が羅碧に到着したころ、暹主の鄭国英が心を病み、質知と芻癡の妻子を捕えた。質知らは怨み、我が軍が至ると協議した。芻癡は言った。
 「我が主は理由も無く我が妻子を捕えた。我らが死力を尽くして戦ったとしても、誰も評価しないだろう。漢人と和を結び、外から支援して貰う他無い。」
 質知が言った。
 「そのことは私も考えていたことだ。」
 そこで人を阮有瑞の軍に遣わして、和を結び、寨に迎えて会うことを約した。阮有瑞はこれを受諾した。
 翌日、阮有瑞は数十人の従者と共に小道から暹の寨に入った。暹の兵が驚愕して互いの顔を見あっている中、質知と芻癡が招き入れて歓待し、現状を話した。宴たけなわとなり、矢を折って誓いを立てた。阮有瑞は旗・刀・剣の三宝器を贈り陣に戻った。
 同じ頃、暹の古落成で反乱が起きたため、鄭国英は丕雅の寃産に討伐に向かわせた。反乱軍の首領は寃産の弟であった。寃産は弟に合流して寝返り、却って望閣城を攻撃した。城內の人は門を開いて兵を入れた。この事態を聞いた鄭国英は為す術がなく、仏寺に逃れた。寃産は鄭国英を捕えると幽閉し、急ぎ質知に帰国するよう伝えた。質知はこの報を受けると、「既に阮有瑞とは和を結んだので、後ろから攻撃される心配は無い」と判断し、夜中に兵を率いて望閣城に帰って行った。望閣城に到着する直前、密かに人に命じて鄭国英を殺害させ、罪を寃産に転嫁した。罪を喧伝して乱を起こしたことを責め、別室に拘禁して、まもなく殺した。そして遂には国民を脅して自ら即位し、暹羅王となって、仏王(原注:暹の習俗では仏が重んじられ、大王を仏王とする)と号した。弟の芻癡を第二国王、姪摩勒を第三国王とした。我が国民で先に鄭国英により遠方に移住させられた者は、みな解放されて望閣城に戻り、生活費として銀と米を支給された。
 同年秋、該奇の黎福晪や参謀の黎福評らを遣わして通好した。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年03月27日 17:05

『大南寔録』「外国伝 カンボジア」

『大南寔録』正編列伝初集巻三十一「高蛮(カンボジア)」を全て挙げるのは多すぎるので、冒頭から広南国時代までの分を以下に訳します。


 高蛮、またの名を真臘、高綿という。(原注:紹治の初めに諱を避けて真臘と号したが、七年に高蛮と改めた)
 本は古の扶南の属国で、後に扶南の勢いが衰えると、遂には真臘を併合した。唐の神龍年間になって国が二つに分かれた。
 北半分は山が多く、陸真臘と号した。地は七百里、王は笡屈と号した。
 南半分は海に面して肥沃な湿地が広がり、水真臘と号した。地は八百里、王は婆羅提抜城に住んだ。
 唐代に二国共来貢し、共に王に封ぜられた。宋代になると一つに合わさり、真臘と号した。
 安南が建国されると、李太祖の順天三年(原注:宋の祥符五年)に、真臘は初めて来貢し、三年に一回使者を派遣した。まもなく占城と共に乂安に攻め込んだが、何度も敗れた。これ以降、国交は絶え、北の元に朝貢した。
 明初になって、その王の忽児那多が上表して土地の産物を献じたが、永楽年間になって使者は再び絶えた。占城に攻撃されたため、来ることが不可能となったからである。

 本朝の太祖皇帝が初めに順化を本拠地に定めた際、特に占城の城郭が近かったため、先に攻略目標とし、真臘は後回しにした。
 太宗皇帝の戊戌十年(1658)、その王の匿螉禛が国境近くに攻め込んだ。
 (原注:『嘉定通志』によれば、その国の人は名は有るが姓は無く、王の子孫は全て匿螉と名乗り、禛はその名である。その名は良い意味のものを命名し、祖父と孫が同名であっても諱を避けない。)
 鎮辺営副将の尊室燕が命を奉じて討伐に向い、興福城(原注:今の辺和省の福正県の地)で蛮兵を大いに撃ち破り、禛を捕虜にして献じた。太宗はその罪を赦し、官兵に命じてその国まで護送し、藩臣となり毎年朝貢するよう命じた。
 甲寅二十六年(1674)、禛が死んで、匿螉嫩が即した。その臣の烏苔が叛き、暹(訳注:シャム)が攻め込んだ。嫩が逃げてきたため、太宗は統兵の阮楊林らに討伐に向かわせた。烏苔は敗走して死に、匿秋は降伏した。朝議により、匿秋が嫡流であるとして正国王に封じて龍澳城に住まわせ、嫩を改封して第二国王として柴棍城(訳注:サイゴン)に住まわせ、元通りに朝貢させた。
 己未三十一年(1679)、明の総兵の楊彦廸や陳上川らが清に仕えることを拒んで、兵船を率いて来帰した。朝廷ではこれを真臘の東浦の地に留めて臣従を受け入れ、楊彦廸らは美湫(原注:今の定祥)に、陳上川らは盤轔(原注:今の辺和)に住まわせて、森林を開拓させ、交易場を設けさせた。これより清人・洋人・日本・闍婆など諸国の商船が集まり、東浦は遂には楽土となった。

 顕宗皇帝の戊寅七年(1698)、東浦の地を取って嘉定府を置き、藩鎮営を置いて、千里の地と四万戸が新たに得られた。
 これ以前のこと、東浦が開発されて六年、楊彦廸が部下の黄進に殺され、真臘正王の匿秋が叛いて羅碧・求南・茶栄の三ケ所に砦を築き守った。副王の匿嫩がこの政変を報せたため、顕宗は万龍を統兵として討伐に向かわせた。陳上川は残りの龍門の兵を率いて従軍した。黄進が誅されると、真臘人は震え上がり、遙律という女を遣わして金品を贈り、進軍を遅らすよう求めた。万龍はその計略に嵌まり進軍しなくなった。該奇の阮有豪が万龍と交替したが、阮有豪も進軍しなくなった。将が相次いで計略に嵌まり、戦果が得られなかった。
 庚辰九年春、阮有鏡が命を奉じ、諸軍を率いて各地を攻めた。匿秋は城を棄てて逃亡し、匿嫩の子の匿淹が城から出て降伏した。その後、匿秋もまた陣まで来て降り、臣従することを願い出た。阮有鏡は牢堆まで兵を退いて、真臘の鎮定に従事した。
 匿秋が老齢となり、子の匿深に位を継がせた。匿深は「匿淹が自分の地位を狙っているのではないか」と疑い、戦闘状態になった。匿淹が大軍(訳注:広南国軍)と共に進擊すると、匿深は羅碧を棄てて暹に逃げ、これに帰した。匿淹が帰国するよう呼びかけたが、戻ってこなかった。匿秋は匿淹に国を継がせることを願い出て、遂には匿淹が襲封した。
 匿淹が没すると、子の匿他が即位した。匿深が暹から帰国してこれを認めず、攻撃したため、匿他は嘉定に逃げた。匿深が再び国を統治した。匿深が死ぬと、諸子(原注:敦・軒・厭の三人)が後継者の地位を巡って争ったため、官軍が討伐して平らげ、匿他を帰国させた。匿原(原注:匿深の第二子)が暹の援軍を得て匿他を攻めた。匿他はまた来奔したが、まもなく死んだ。匿原がその国の王となった。

 世宗皇帝の庚午十二年(1750)、匿原が崑蛮(原注:順城の集落)に攻め込んだ。
 癸酉十五年(1753)、統率の善政(原注:人名)と参謀の阮居貞が命を奉じ、五営の兵を率いて討伐に向かった。道に分かれて一斉に進んだ。雷巤・尋奔・求南・南栄の四府は降り、匿原は遁走した。
 阮居貞は崑蛮を招撫し、男女五千人あまりを保護して婆丁山に戻り駐留した。
 張福猷が善政に代わって統率となると、更に激しく求南と南栄を攻めた。匿原は河僊に逃げて鄚天賜を頼り、尋奔と雷巤の二府を献じて贖罪とすることを願った。阮居貞がこれを受け入れ、軍は帰還した。
 匿原が死ぬと、族叔の匿螉潤が茶栄と巴忒の二府を献じて権監国事となった。潤はまもなく娘婿の匿香に殺された。潤の子の匿尊が河僊に逃げてくると、鄚天賜が匿尊に襲封させるよう進言した。世宗はこれを許し、鄚天賜に五営の将士と共に護送して帰国させるよう命じた。匿尊は尋奔と楓龍の地を世宗に献じ、感謝として香澳・芹渤・真森・柴末・霊瓊の五府を鄚天賜に割譲した。鄚天賜はこの地を全て世宗に献じた。
 張福猷と阮居貞は、龍湖営(原注:もとは丐𦨭処にあった。丐𦨭処は今は定祥の建登県に属す。)を尋袍処(原注:龍湖村、今の永隆省)に移し、沙的処に東口道、前江に新州道、後江に朱篤道(原注:後に安江となる)を設け、香澳五府を河僊に所属させ、龍川道や堅江道を設置するよう進言した。
 匿尊が即位すると、真臘の僞王の匿嫩が暹から帰国して地位を争い敗れた。暹王の鄭国英が自ら兵を率いて来援したため、匿尊は出奔した。暹は匿嫩を王に立てた。

 睿宗皇帝の己丑四年(1769)、統率の阮久潭と参賛の陳福成を討伐に向かわせた。鄭国英は河僊に、匿嫩は芹渤に逃げ、羅碧や南栄の諸府を取り戻した。匿尊は国を取り戻したが、暹の侵略に苦しみ、弟の匿螉栄に正王の地位を譲って、自らは第二国王となり、次弟の匿深を第三国王とした。匿栄は西山の乱が起きて以来、密かに謀叛を企て、朝貢を果たさなくなった。
 丙申十一年(1776)冬、わが世祖は睿宗の命を奉じ、副節制の阮久俊や掌奇の張福慎らを従えて兵を率い討伐に向かった。匿栄は降伏を願い出た。
 丁酉十二年、匿栄が匿深を謀殺し、匿尊は憤死した。その臣の昭錘謨と低都練が楓吹に拠って、匿栄から離反した。位奔趨が羅碧に拠ってこれに呼応し、龍湖営に援軍を求めた。



 いや、それにしても後継ぎ争いのたびに外国の支援を受けるために領土割譲するとか、あまりにも酷過ぎ。それにしても当時は北と戦っているのに、その片手間でこれだけ力があるのって、統一したらどれだけ強国なのかと。

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