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2016年 09月の記事(13)

ナントカ堂

ナントカ堂 2016年09月22日 01:56

王継昇

『宋史』巻二百七十六の論賛に「太宗が即位する以前、側近には必ず忠義に厚く能力のある士を求めた。即位するに及び、これらの者に対し王であった頃から仕えていた功に報いた。陳従信・張平・王継昇・尹憲・王賓・安忠の六人はみな要職に就き、共に軍事と食糧問題で大いに頼りとされたが、各々自身の職務を果たし、称賛すべき人物であった。」とありますが、この六人の中でも最も信任されていたのが小字で呼ばれていた王昭遠でしょう。
弟の王昭遜は列伝ではほとんど事績が記されていませんが、『宋史』巻百七十六の「食貨志上四」に駐泊都監として屯田を開発していることが記されており、民政にさほど力を注がなかった兄とは対照的に専ら文官として仕えていた人物です。王継昇・王昭遠と武官として高い地位についていた王氏ですが、その子の世代には武官から外れ、その後の世代については何も判っていません。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年09月22日 01:48

安守忠

『宋史』巻二百七十五に伝のある安守忠について、本人についてはwikiに詳しく記されているので省きますが、その祖父の安金全は『旧五代史』巻百二十三に、父の安審琦は『旧五代史』巻百二十三に伝があり、「安金全伝」に代々辺境の将であったと記されていて、沙陀の名族でした。この家系は地盤が固かったようで、前項の呉廷祚や党進の家よりもさらに長続きし、『聊城県志』には「守忠の子の必達は、宋の端拱年間に進士となって枢密副使となった。必達の孫の国英は,慶暦年間に進士となり参知政事となった。国英の玄孫の惟一は元祐年間に進士となって龍図学士となり、惟一の孫の允升は金の大徳年間に進士となって江北宣諭使となった。赤フ(糸偏に祓のつくり)はその子孫で、明の洪武年間に平山衛指揮使となった。」とあります。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年09月22日 01:16

呉廷祚

呉廷祚は後周の太祖のころからの軍人でしたが、幼少のころから読書を好み、書を一万巻以上集めたほどの学問好きで、その影響を受けてか次子の呉元載が地方官として有能であったのをはじめ子の多くが文の道を歩みました。太宗の娘を娶った三子の呉元イ(とだれに衣)も武将として有能であった一方で民情に配慮した政治を行い、真宗から、皇帝の婿の中では呉元イだけが賢明であると称賛されました。『宋史』巻二百五十七には呉元イの子の世代が各々官職に就いたことが簡単に記されて終わっていますが、『揮麈前録』には「呉鑄は国初の功臣の呉廷祚の子孫である。祖父の呉元祐もまた公主を娶ったが、劉豫に敗退してその朝廷に仕え、枢密使にまでなった。」と記されています。
呉氏は劉豫の斉に仕えたことまでは判っていますが、恐らくはその後の金にも仕えたと思われます。『宋史』巻二百六十に伝のある党進は宋初の武将ですが、その子孫の党懐英が金の文官として仕えたことが『金史』巻百二十五に記されており、華北の地に残された旧族も多くが金に仕えたことでしょう。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年09月22日 00:49

石守信と王審琦

魏仁浦の項で石守信と王審琦が出てきたので今回はその家について

石守信の子の石保興は父と同様の名将で対西夏戦で活躍しました。しかしその弟の石保吉は武勲を挙げてはいるものの傲慢な性格でたびたび法を無視しては、皇帝から大目に見てもらっていたことが『宋史』巻二百五十の本伝に記されているほか、『宋史』巻四百六十三の「劉美伝」にも、城を無許可で改築したことから朝廷から疑いの目を向けられていたことが記され、石保吉については目を瞑っていた朝廷も石保吉の子の石貽孫が法に触れるに至っては免官としました。また石保興の子の石元孫は西夏に惨敗し、以前から石氏のやり方に不満を持っていた朝臣たちから弾劾を受けて配流されました。
法で治めていこうとしている宋朝にとって、名門の出でさらに軍功のあることを恃みとして秩序を乱す石氏は許しがたい存在であったのでしょう。これ以後石氏は歴史の表舞台から消えていくこととなります。

これに対して王審琦の家系は時代の風潮に乗って武門の家から文官への転換を図りました。孫の王克臣が進士となると仁宗は、皇帝の外孫が進士になったといって大いに喜び、さらに文官として有能であったので、工部侍郎になると、神宗は尚書省に行くたびに、庁舎の前で車を止め、王克臣が政務に励んでいることを褒め、その寵遇には誰も及ばなかったと記されています。さらに王審琦の曾孫の王師約が進士となると、進士を娘婿としたいと考えていた英宗により皇帝の身内となって、公主との間に子を成し、王氏は栄えていくこととなります。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2016年09月21日 07:30

魏仁浦

今回は魏仁浦についてですが、本人の伝は他所にあるのでここでは省いてその一族について。
太祖の六人の娘のうち三人は早くに亡くなり、残りの三人は魏国大長公主が王審琦の子の王承衍、魯国大長公主は石守臣の子の石保吉、そして陳国大長公主は 魏仁浦の子の魏咸信に嫁ぎました。この三家は太祖の婿の家として別格と見られ、『宋史』「魏咸信伝」に。「雍熙三年(986)冬、契丹が辺境を騒がせたので、官軍が討伐に向かい、公主の婿全員に要地を守るよう命じた。王承衍は大名府知府、石保吉は河陽府知府、魏咸信はセン州知州となった。」とあり、魏咸信は「太祖が皇帝になる前、昭憲太后が魏仁浦の邸宅に来たとき、魏咸信はまだ幼かったが、母の側に控えて大人のようにしっかりしていた。太后はこれに目を留め、この子と婚姻を結ぼうと考えた。」また魏咸信の子の魏昭亮は「まだ幼く名が無かったころ、太宗に召されて宮中に参内し、花を愛でる詩を作るよう命じられた。詩を作って献上すると、太宗は大いに喜び、上尊酒を注いで、「従訓」「昭亮」と書かせ、どちらを名乗るか選ばせた。」とあるように、皇帝と個人的にも親しい間柄でした。また『宋史』巻二百六十八に伝のある張遜は、早くに父を亡くし、母が魏仁浦と再婚して魏咸信を産んだため、魏仁浦の異父兄にあたり、これも魏氏の縁により任官されました。本伝の記事を見るとそこそこ活躍しているようですが、「張遜はよく心を配り慎み深かった。ただ太宗が皇帝になったので取り立てられて貴顕になったのであり、計略を廻らせ良い進言をするということは無かった。」と評されています。
魏仁浦が文官として仕えましたがその子孫は「将門」つまり武門の家として仕えていきます。ただ代々特に功績も無いのに高位に就いていたため次第に劣化していき、韓琦が「魏昭昞(魏仁浦の孫)と王克基(王審琦の曾孫)は今まで都を離れたことがなかった。このたび兵を指揮させて地方の守備に向かわせたところ、最近になってやっと延州まで到着したが、その兵は四散していなくなった。」と記すほど無能に成っていました。

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