ナントカ堂 2016/09/21 07:30

魏仁浦

今回は魏仁浦についてですが、本人の伝は他所にあるのでここでは省いてその一族について。
太祖の六人の娘のうち三人は早くに亡くなり、残りの三人は魏国大長公主が王審琦の子の王承衍、魯国大長公主は石守臣の子の石保吉、そして陳国大長公主は 魏仁浦の子の魏咸信に嫁ぎました。この三家は太祖の婿の家として別格と見られ、『宋史』「魏咸信伝」に。「雍熙三年(986)冬、契丹が辺境を騒がせたので、官軍が討伐に向かい、公主の婿全員に要地を守るよう命じた。王承衍は大名府知府、石保吉は河陽府知府、魏咸信はセン州知州となった。」とあり、魏咸信は「太祖が皇帝になる前、昭憲太后が魏仁浦の邸宅に来たとき、魏咸信はまだ幼かったが、母の側に控えて大人のようにしっかりしていた。太后はこれに目を留め、この子と婚姻を結ぼうと考えた。」また魏咸信の子の魏昭亮は「まだ幼く名が無かったころ、太宗に召されて宮中に参内し、花を愛でる詩を作るよう命じられた。詩を作って献上すると、太宗は大いに喜び、上尊酒を注いで、「従訓」「昭亮」と書かせ、どちらを名乗るか選ばせた。」とあるように、皇帝と個人的にも親しい間柄でした。また『宋史』巻二百六十八に伝のある張遜は、早くに父を亡くし、母が魏仁浦と再婚して魏咸信を産んだため、魏仁浦の異父兄にあたり、これも魏氏の縁により任官されました。本伝の記事を見るとそこそこ活躍しているようですが、「張遜はよく心を配り慎み深かった。ただ太宗が皇帝になったので取り立てられて貴顕になったのであり、計略を廻らせ良い進言をするということは無かった。」と評されています。
魏仁浦が文官として仕えましたがその子孫は「将門」つまり武門の家として仕えていきます。ただ代々特に功績も無いのに高位に就いていたため次第に劣化していき、韓琦が「魏昭昞(魏仁浦の孫)と王克基(王審琦の曾孫)は今まで都を離れたことがなかった。このたび兵を指揮させて地方の守備に向かわせたところ、最近になってやっと延州まで到着したが、その兵は四散していなくなった。」と記すほど無能に成っていました。

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