ナントカ堂 2016/09/21 06:35

符彦卿

『龍川別志』には、占い師からイノシシに関係する二人をよく面倒見れば富貴を保てるだろうと言われた張永徳(郭威の子の内で後周のときに唯一生き残っていた四女の婿)が、亥年生まれの趙匡胤・趙匡義兄弟を身分が低い頃から世話をして、宋代になってからも富貴を保ったという話が載せられています。その中にこう記されています。「太宗は符氏を妻としたいと考え、太祖に相談した。『符氏は大家で、わが家は貧しい。婚資が無いがどうしようか。』」これで張永徳が金を出して婚姻が纏まるわけですが、この話が事実か作り話かはともかく、後周の時代、符彦卿の家は趙匡胤の家よりも格段に上の家系でした。
父の符存審は李克用の十三人の義子である十三太保の一人、後周の世宗も権力を固めるために宣懿皇后を娶ったほどで、さらに親子代々武勲もあり、符彦卿は後周の恭帝と宋の太祖の時代には、詔書を賜る際、名ではなく官爵名で記されるほどでした。
その子のうち、符昭信と符昭愿は目立った軍功がないもののそれなりに職務を果たして家の面目を守りましたが、符昭寿は、毎日遊興に耽り、高慢で好き勝手に振舞っていたため、反乱平定後の剣南の地に駐留していた際、部下に殺されました。
符昭寿の子の符承諒は斉王の娘の嘉興県主を娶り、内殿承制となりましたが目立った功績も無く符氏はそれなりの待遇を受けていたようですが次第に表舞台から消えていくこととなります。

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