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2020年 12月の記事(4)

ナントカ堂

ナントカ堂 2020年12月20日 09:35

阮文存

 前回と同じく『大南寔録』「正編列伝初集」巻二十八より、カンボジア人奴隷から阮朝建国の功臣となった阮文存の伝を見ていきましょう。

阮文存

阮文存、眞腊の茶栄の人で、もとは宮中の奴隷である。
 甲辰(1784)春、嘉隆帝が望閣に逃れると、該隊に任命された。
 丁未秋、嘉隆帝が暹(シャム)から帰国すると、黎文勻に従って西山朝側の巴淶堡を攻め落とした。
 まもなく命により、茶栄と斌切に住むカンボジア人数千人を集めて兵とした。これを暹兵屯と号し、阮文存が統管となった。
 阮文存は初め名を沿といい、姓は無かった。嘉隆帝側に付き従って功があったため、姓を賜った。
 己未(1799)に武性に従って平定城を守ったが、辛酉(1801)に城は落ち、西山朝の軍に捕らえられた。ここで西山朝に降って兵の指揮を任された。
 阮軍が西山軍と交戦すると、阮文存は偽って西山軍のために戦った。阮軍から誘われても阮文存は無視したため、西山軍は阮文存を信用した。そこで隙を見て阮軍に逃げ帰った。阮文誠からこの報告を受けた嘉隆帝は、阮文誠の麾下として西山軍と戦うよう命じた。
 ある人から「先に敵軍にいて我らと戦ったのはなぜか。」と問われると、阮文存は「わが軍に大打撃を与えなければ敵軍は私を信用しなかったでしょう。敵に信用されなければ麾下全軍を率いてわが軍に戻る事は出来なかったでしょう。」
 人々はその知恵に感服した。

 嘉隆元年(1802)に該奇に昇進した。
 その年の冬、阮文存の麾下の暹兵は郷里に帰って休息することを許され、阮文存は鎭江に斜温堡を築いて、茶栄と斌切の二府を管轄し、永鎭営に属すよう命じられた。
 七年(1808)、都に召されて多大な恩賞を賜り、再び任地に戻った。
 九年、暹兵を改めて威遠屯とし、阮文存は統屯となって、元通り管轄した。
 十年に再び都に召されると統制に昇進し、威遠屯を管轄することとなった。任地に戻る際、黄金十両・白金三十両・銭二百緡・大朝冠服一式を賜った。まもなく屯兵千人を率いて南栄を守るよう命じられた。
 十八年(1819)、兵を指揮して永済運河を開浚した。
 明命元年(1820)に卒去すると、弔問に使者が遣わされ、宋錦二枝・布二十疋・銭百緡を賜り、墓守七名が給された。

 八年、子の阮文謂が更なる贈位を求めたため、統制を追贈された。明命帝は礼部にこう言った。
 「阮文存は奴隷の身であったが、生来忠義で勇猛で、漢の金日磾にも劣らない。昔、平定の役で威遠軍が西山軍に捕虜となった際、敵将は阮文存の才を気に入り、阮文存も偽って従った。このため威遠軍は温存されてわれらに帰した。これこそ真の智勇というものである。」

 阮文謂は初め該隊となり、まもなく衛尉に転じた。靖辺奇を管轄し、これを「原威大屯」と号した。
 十四年、黎文𠐤が乱を起こすと、人々は「阮文謂は密かに、黎文𠐤と通じていた」と訴えた。このとき阮文謂は既に死んでいたため不問に付した。


 この他、同巻にあるカンボジア人とタイ人の伝も見てみましょう。


葉茂

 葉茂もまたカンボジア人である。初めに軍に入って長支となった。長い間従軍し、また多くの家産を出して軍費を助けた。嘉隆三年(1804)に欽差該奇管茶栄府に昇進した。

栄麻離

栄麻離は暹羅人である。初め冤産の乱を避け、人々を率いて古龍島に移り住んだ。
 癸卯、西山軍から攻撃されて世祖(嘉隆帝の祖父)が河僊に避難したと聞いた栄麻離は、麾下二百人あまり、軍船十数艘を率いて拝謁し、自ら帰附することを願い出た。世祖はこれを受け入れた。
 その年の夏、世祖の軍は西山軍と畳石嶼で戦って敗れ、栄麻離・尊室谷・黎福晪らは敵に捕らえられて殺された。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年12月13日 11:43

何喜文

 以下、『大南寔録』「正編列伝初集」巻二十八より、何喜文伝及び附伝です。


 何喜文は清の四川の人で、白蓮教の残党である。
 初めに海外にて人々を集めて天地会と号し、閩粵間で略奪を行っていた。

 丙午(1786)春、崑崙島に停泊していた時、嘉隆帝が望閣に居ると聞き、帰順しようと考え、部下の梁文英・周遠権・黄忠仝らを遣わした。嘉隆帝は喜んで帰順を受け入れた。

 丁未(1787)秋、嘉隆帝は暹より帰国して古骨島に至ると、阮文誠や阮太元らを遣わして招諭した。何喜文は軍船を率いて帰順し、巡海都営の地位を与えられた。部下の梁文英らは各々地位に応じて統兵・総兵・飛騎尉の地位を与えられた。
 美湫の戦いで官軍が敗れると、何喜文は崑崙に撤退した。

 戊申(1788)、召されて行在に行き、銭百緡・米二百方・絹布二十疋あまりを賜った。

 軍船を率いて官軍に従い賊を討ち、乙酉年(1789)、軍船に乗って帰仁から順化・北河を経て敵情を探り、廉州に行って招諭し、海賊船二十三艘を帰順させた。

 庚戌(1790)、阮文誠に従って角魚堡を守備した。

 壬子(1792)夏、嘉隆帝が帰仁を攻撃するのに従った。水戦を得意とし、唐兵を指揮して、常に親征に従って、数多の顕著な軍功を挙げた。

 辛酉(1801)冬、陣中で病没した。帝は悼惜して止まず、官費により手厚く葬儀を行った。

 嘉隆三年(1804)に嘉定顕忠祠に列祀され、六年に昭毅将軍・水軍統制上護軍・定望閣功・列在二等を追贈されて、墓守を給された。

 子は二人。蔭位により何楊は該府艚、何養は該隊となった。何楊の子の何福も蔭位により恩騎尉となった。

 部下の梁文英・周遠権・黄忠仝は官職を歴任して、巡海副都営にまで至った。
 黄忠仝は明命年間に罪により免官となったが、まもなく復帰して正巡海都營となり、三品俸を支給されて、嘉定城差派に属した。黄忠仝の子の黄諒は蔭位により奉恩尉となった。

 張公引は清の福建の人で、南に来て帰順した。中興の初めに従軍して功があり、中軍営・欽差掌奇・管全勇道を歴任して、敵を討った。また新旧の唐人を管掌した。まもなく卒去した。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年12月12日 00:30

宋太宗家臣団⑥

 前回まで五回に亘って『宋史』巻二百七十六から、太宗が晋王であった頃からの家臣の伝を挙げてきました。巻二百七十六は前半が能吏の伝で真ん中に論賛が入って一旦纏められ、後編が太宗の家臣六人の伝です。一方、巻二百六十八は全巻が晋王時代からの家臣の伝で、論賛にこうあります。


 柴禹錫以下、藩邸に給事して取り立てられ、高官となった者は七人。楊守一は実直、趙鎔は勤勉で、長い間勤めて益々職務に励んだ。張遜は理財に優れていたが嫉妬心があり、周瑩は軍事に練達していたが無暗に残酷で、柴禹錫はもともとは勤勉であったが徒党を組んで政治に悪影響を及ぼすことが止められなかった。王顕は慎み深かったが学識に乏しかったため余裕の無さを謗られた。勤勉さで信頼され、老いて徳があり、終始一貫していたのは王継英だけである。『易経』で言うところの「君子、終わり有れば吉。」とはこのことを言う。


 今回は柴禹錫について見ていきましょう。

柴禹錫

 柴禹錫、字は玄圭、大名の人である。若いころ、客人が柴禹錫を見て言った。
 「この子の素質は非凡である。学問でそれを補えば必ずや将相の地位に上るであろう。」
 これより柴禹錫は学問に励んだ。
 当時太宗は晋王で、柴禹錫は受け答えが良かったため、給事の地位を得た。
 太平興国の初め(976、太宗の初の元号)に供奉官となり、三年に翰林副使に改められて、如京使に昇進し翰林司を掌った。
 晋王だった頃からの家臣であったため、宿直のたびに召されて宮中外の事を尋ねられた。宣徽北院使に昇進し、宝積坊に邸宅を賜った。
 秦王の廷美の陰謀を暴いて枢密副使に抜擢され、翌年、南院使に転じた。既に勤続年数が長かったが、ますます勤務に励んだ。

 雍熙年間(984~987)に宮城を拡張することが議された。柴禹錫の有する別業が予定地に含まれたため、柴禹錫はこれを官邸に替えるよう求めた。これを機に太宗とは疎遠となった。
 柴禹錫は宰相の宋琪と仲が良かった。このころ広州の徐休復が、転運使の王延範の不法行為を密かに訴え、更に重臣の中にもこれに加担している者がいると言及した。しかし誰もこの件に対応しようとしなかった。太宗は事のついでに宋琪と柴禹錫に「王延範とは何者だ。」と尋ねた。王延範の妻と宋琪の妻は遠い親戚であったため、宋琪は王延範の忠勤を力説し、柴禹錫もまた宋琪に賛同した。太宗は、宋琪と柴禹錫が王延範と通じていると考え、ますます不快となった。
 更に柴禹錫が宋琪のために、盧多遜の旧宅を賜るよう働きかけると、太宗はますますその一派を憎むようになった。太宗は、無礼な振る舞いがあったためとして宋琪を宰相を罷免した。派閥を形成していたためと公言することを憚ったからである。そして詔を下して柴禹錫を責め、驍衛大将軍の地位で滄州知州として地方に出した。
 柴禹錫は任地で政務に励み、領民が浜州まで来てその実績を列挙した書状を届け、これが上聞に達したため、州観察使に改められた。その後、州と鎮州の駐泊部署に異動となった。にわかに州知州となると、州民が留任を願い出たので三年留まり、お褒めの詔が下された。その後、永興軍知府に異動となり、再び都に召されて宣徽北院使・知枢密院事となった。

 至道の初め(995)に鎮寧軍節度使・涇州知州に任命され、赴任の挨拶に行くと太宗からこう言われた。
 「本来宣徽使の後は防禦使にまでしかなれない。今、卿を節度使にしてしかも要所を任せるのは、特別な優遇である。」
 柴禹錫は涙を流し嗚咽するのみであった。
 咸平年間(998~1003)に貝州知州に異動となった。その年、契丹軍が突如貝州に攻め寄せた。柴禹錫が厳重に守りを固めたため、契丹軍は間もなく撤退した。翌年、陝州に異動となった。

 景徳の初め(1004)、子の柴宗慶が選ばれて公主の婿となった。柴禹錫が召されて都に戻ると、公主が柴禹錫の家に来て会った。公主は義父と義母に対する礼をしようとしたが、柴禹錫は固辞して受けなかった。しばらくして任地に戻ったが、まもなく卒去した。享年六十二。太尉を追贈された。子の宗亮は太子中允、宗慶は永清軍節度使となった。


 柴宗慶の伝は巻四百六十三の「外戚上」にあります。


柴宗慶

 柴宗慶、字は天祐、大名の人である。祖父の柴禹錫は鎮寧軍節度使、父の柴宗亮は太子中舎である。柴宗慶は太宗の娘の魯国長公主を娶ったとき、柴禹錫の孫ではなく子の世代の資格で蔭位を受け、左衛将軍・馬都尉を拝命して恩州刺史を領した。柴禹錫が卒去すると、名目上ではなく実際に康州防禦使の任に就き、後に復州防禦使に改められた。
 旧制では諸公主の家で必要な物は市で買うことになっていた。柴宗慶は家の使用人に命じて地方に炭を買いに行かせ、途中の通行税は免除されて、都に到着すると全て売却して、それから市で必要な分を買っていた。詔が下され、以後、公主の家で必要な物を市で買うことは中止となった。
 汾陰での祭祀に随行して行宮四面都巡検となり、その後、泉州管内観察使に昇進した。このとき柴宗慶は、陝西で材木を購入して都まで送る際の通行税の免除を願い出た。真宗は言った。
 「以前に汝に私的に材木を売って民の利を奪うなと諭したが、今またそれを言うか。」
 その後、河東提点刑獄が「柴宗慶は使用人に馬を買わせて通行税を納めていない」と弾劾した。真宗は罪を問うのを猶予した。武勝軍節度観察留後となり、更に彰徳軍節度使となった。

 仁宗が即位すると、静難軍に、更に永清軍から彰徳軍に異動となった。同中書門下平章事を拝命し、武成軍節度使となり州知州として赴任したが、任地に着く前に陝州と州の知州に改められた。
 後に鄭州判官となったが、部曲に勝手な行動を許して民に迷惑を掛けた。柴宗慶は都に呼び戻されて奉朝請の地位に置かれ、地方官でなくなったことで毎年の公用銭の支出が四百万減った。
 しばらく経ってから、済州判官として赴任することとなったが、御史中丞の賈昌朝の意見により現地には行かせず、公使銭の使用も差し止めた。
 卒去すると中書令を追贈し、栄密と諡した。妻の公主は累封されて楚国大長公主となり、柴宗慶より先に没した。

 柴宗慶は数々の官職を歴任したが過失が多く、生来極めて貪欲で巨万の富を蓄えたが、それでも満足しなかった。その甚だしさを芸人にまでからかわれたが、柴宗慶はそのことを知っても改めようとしなかった。男子は無く、没したときにその資産を官に納めることを願い出たが、柴宗慶の娘がまだ幼かったので仁宗は許可しなかった。人々は「柴宗慶は公主の婿に選ばれ栄光と高い身分を得て四十年あまり。最後にはその貯めこんだものを献上して軍用に充てた。これで今までの失態を補ったというものだ。」と話し合った。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年12月05日 00:36

郭従義

 「宋太宗家臣団⑤」で、宋に仕えた沙陀系の人物について触れたので、今回はその代表として『宋史』巻二百五十二より、郭従義の伝を挙げましょう。


 郭従義、その先祖は沙陀部の人で、父の郭紹古は後唐の荘宗に忠実に仕えて特に信任され、李姓を賜った。
 郭紹古が卒去したとき郭従義はまだ幼かったので、荘宗が宮中で養育し、諸子と共に育った。明宗は郭紹古と同僚として荘宗に仕えていたので、私的に親密であり、即位すると郭従義を宮中の官職に任じた。郭従義は累進して内園使となった。

 後晋の天福の初め(936)、再び郭姓に戻った。失態により宿州団練副使として地方に出され、父の喪に服すため北に戻って、太原に居を定めた。後漢の高祖はまだ地方に鎮守していた頃に郭従義を推薦して、郭従義は馬歩軍都虞候となった。しばしば兵を率いて代北で契丹を破り、高祖が皇帝となったときには、郭従義が率先して即位に賛同した。鄭州防禦使に抜擢され、東南道行営都虞候となり、本隊を率いて太行路から黄河を渡った。

 後漢の高祖が汴に入ると、郭従義は河北都巡検使となった。
 杜重威が大名に拠って叛くと、郭従義は行営諸軍都虞候となり、重杜威が降ると、鎮寧軍節度使となった。
 趙思綰が叛くと、行営都部署となり、軍服・武器・金帯を賜った。永興に進軍して城を包囲すると、郭従義は永興軍節度使となった。趙思綰軍は兵糧が尽き、城内では人が相食む状況となったので、郭従義は、趙思綰に降るよう説いた矢文を城内に射た。それから朝廷に対して、華州の全権を任されることを願い出た。隠帝がこれを許可すると、直ちに趙思綰にもとに使者が遣わして説得した。趙思綰は開門して降伏した。翌日、郭従義は軍と共に整然と入城した。館で休憩していると、趙思綰が入ってきて挨拶をしたので、衛兵に命じて捕らえさせ、趙思綰の一党三百人あまりと共に全員市で斬った。この功により郭従義は同平章事を加えられた。

 後周の広順の初め(951)、兼侍中を加えられて、許州に移鎮となった。
 顕徳の初め(954)、世宗自らが郊祀を行い、郭従義に検校太師を加えた。
 世宗が劉崇討伐に向かおうとしたとき、郭従義が来朝し、ちょうど良い機会であったので従軍することを願い出た。世宗は大いに喜び、郭従義を天平軍節度使に改め、符彦卿に従って忻口で契丹を討つよう命じた。帰還すると功により兼中書令を加えられた。
 四年、淮南遠征に従軍して徐州に移鎮となった。
 世宗が迎鑾から泗州に到着すると、行在まで行って拝謁した。
 恭帝が即位すると、自身の幕府を開く資格を与えられた。

 宋初に守中書令を加えられた。太祖が揚州に遠征すると、郭従義はその途中で出迎えて同行することを願い出たが、受理されなかった。
 乾徳二年(964)、更に河中尹・護国国節度使となり、六年に病のため都に戻った。
 開宝二年(969)に左金吾衛上将軍に改められ、翌年、老齢のため辞任を願い出て、太子太師を拝命して致仕し、四年に卒去した。享年六十三。中書令を追贈された。

 郭従義は生来重々しくて知略があり、多くの技能を身に付け、飛白書をもっとも得意とした。
 趙思綰が叛いたとき、巡検使の喬守温が遁走し、その妾は全て趙思綰のものとなった。趙思綰が滅ぶと、郭従義はこれを全て自分のものにした。喬守温は郭従義のもとに来て愛妾を帰すよう求めたので、あえて拒むようなことはしなかったが、恨みを抱き、ついには喬守温が逃げ出した罪を告発して棄市にした。人々は皆これを不当な処罰だと考えた。
 郭従義は撃球を得意とし、便殿で太祖の側にいたとき、撃つよう命じられた。そこで郭従義は服を着替えてロバに跨り、宮殿の庭を駆け回った。旋回しながら撃ち、あらゆる妙技を見せた。演技が終わると太祖は郭従義に座席を与えてこう言った。
 「卿よ、その技は誠に見事ではあるが、将相のするようなものではない。」
 郭従義は大いに恥じ入った。

 子は郭守忠と郭守信である。郭守忠は閑厩副使になった。郭守信は字を宝臣といい、よく書を知り、士大夫と交遊し、東上閣門使・邢州知州となり、卒去した。その子の郭世隆は比部員外郎となり、郭世隆の子は郭昭祐と郭承祐で、郭昭祐は閣門祗候となった。

郭承祐(曽孫)

 郭承祐、字は天錫、舒王の元偁の娘を娶り、西頭供奉官の地位に就けられた。仁宗が皇太子となると、郭承祐は左清道率府率・春坊左謁者に任じられた。真宗は玉石の小牌二つに銘を刻んで「慎み深くあれ」と諭して渡した。
 仁宗が即位すると西院副使兼閣道通事舎人・勾当翰林司となり、さらに西上閣門副使となった。仁宗の酒と金器を盗んだことを罪に問われて除名され、岳州に籍を移され、許州別駕に左遷された。復帰して率府率となり、西京作坊使・勾当右騏驥院に昇進した。院の大校が馬を試すときには、鞭を鳴らして静粛にしてから帝をお迎えして行う決まりであったが、郭承祐は大校に代わって馬を試した。その無作法さはかくの如しである。その後、六宅使・象州団練使に昇進した。

 郭承祐は狡猾な性格であったが、皇太子と親しく舒王の娘を娶っていたので、除名されてもまた登用された。人を讒言し、或いはほんの僅かな過失を言い立てたので、同僚からは「武諌官」と呼ばれた。
 衛州刺史・相州知州に任命され、都に戻って群牧副使となり、 濰州団練使に任命され、曹州・鄭州・澶州・鄆州・貝州の知州を歴任して、澶州兵馬総管に遷された。下働きの者で不審な者がいると、奏上せずに捕らえて斬った。
 再び州を治めることとなって、赴任する途中で朝廷の使者と会い、招き寄せて「軍官に欠員がどれほどいるか」と尋ねた。使者は「朝廷では武の才がある者を選んでおります。」と言った。郭承祐は起き上がって使者を引き寄せると自分のことをアピールした。側近はみなこれを笑った。

 郭承祐は都に戻ると龍神衛四廂都指揮使となった。父の喪に服した後、真定府・定州等路副都総管として復帰した。諌官の欧陽脩と余靖が「郭承祐にはそれほどの能力が無い」と論じたため、相州知州に改められ、続いて大名府副都総管に遷った。
 枢密使の杜衍が郭承祐の驕慢を嫌って奏上したので、軍事職を辞めさせられ、相州観察使・永興軍副都総管となった。その後、知州に改められ、河陽兵馬総管に遷った。
 杜衍が政治家を辞めると、再び昇進して殿前都虞候となり、代州副都総管兼代州知州となった。州に異動となったとき、諌官の銭明逸が「郭承祐は勝手な政治を行うのでの民は以前から苦しんでいた」と言ったので、相州に改められた。それから秦鳳路副総管となり、累進して建武軍節度使・殿前副都指揮使となった。

 続いて宣徽南院使のまま判応天府となった。応天府は城壁が完成されずに、盗賊が来ても防ぐことが出来なかった。郭承祐は城の南の関より初めて、沙・濉・盟の三河を掘って深くした。郭承祐が亳州に異動すると、諌官がこのような報告した。
 「郭承祐が応天府にいた頃、食糧をまともに支給せず、更には応天府への食糧の搬入まで勝手に止め、朝廷の命令を受けても守備兵を出さず、法を無視して軽い罪でも杖を打ち、政庁の備品を持ち出し、外出時には旗と槍を掲げて禁裏の兵と同じようにして自分の周りを護衛させました。思い上がり甚だしく人臣としての礼も無い状態です。」
 そこで宣徽南院使・許州都総管を辞めさせられ、保静軍節度使・許州知州に左遷された。

 転運使の蘇舜元は郭承祐を、全軍の統率者としての才があるとして推薦し、政事も漢代の龔遂・黄覇に匹敵するものであると言った。仁宗は重臣達に向かってこう言った。
 「あの者は凡人である。龔遂・黄覇と比較してどこに見所があるのか。」
 鄭州知州に改められ赴任する途中、急病となり卒去した。太尉を贈られ、諡は密とした。郭承祐は赴任する先々で多くの厄介事を引き起こし、民衆はこれに苦しんだ。


 「郭従義」を検索すると「収兵権」の話が出てきます。
 「収兵権」の内容として、郭従義の参加した宴席ではなく、石守信らの参加した宴席でのこととして記されていることですが、兵権を取り上げる代わりに子孫の面倒を見ると約束しています。
 おそらく郭従義らにもこういう約束をしたため、使い物にならない曽孫の郭承祐も、舒王の娘を娶らせ要職に就けるなどしなければならなかったのでしょう。

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