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2014年 12月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2014年12月15日 01:45

文天祥がっかりの巻

『至正直記』にこのように書かれています

文山審音

元の初め、宋の丞相の文天祥が捕らえられて燕京に到着した。このとき軍中で『阿刺来』を歌う者がいた。文天祥は驚いて、「これはどのような音楽か?」と尋ねた。兵は「これは朔方より起こったもので、わが朝の歌だ。」と言った。文天祥は言った。「これはまさに黄鍾の音である。南人が再び巻き返すことは無かろう。」まさにその曲は勇猛にして壮麗、渾然として甕より出ているようであった。至正以後、この曲は哀愁を帯び、歌われるたびに悲しみを誘うようになった。至正になって南曲の『斉郎』、『大元強』などがもてはやされるようになったが、これらは宋の衰退の音楽である。

南宋では儒者の間にだけ知られていた漢文化の正統が、中原の地では下の者まで何気なく使っていたことに愕然としたのでしょう。結局、南宋は地方の一政権に過ぎなかったわけです。

『至正直記』にはこれに続いて

中原雅音

北方の発音は端正にして、「中原雅音」と呼ばれる。今、ベン・洛・中山などで話されている発音である。南方とは気候が異なるように、発音もまた異なる。南方では読書したり文章を書く際にも訛っており、詩文の書き方にも技術が無い。南方は中原には遠く及ばないといわれるのは、南方では正しい方法で学べないからである。

と記されています。

宋が南に渡っても依然として中原の地が漢文化の中心地で、金元の文人にとっては長江以南は遅れた土地。だから漢人と南人に待遇の差が生まれたのでしょう。
『元史』巻百七十四の「姚燧伝」に、姚燧の学問は前漢の気風があり、宋末の弊習はこれにより一掃された、との記述があります。宋の儒教は、南方に押し込められて鬱屈し退嬰的となり、これが金代に力を蓄え元代に活発となった新時代の儒教により吹き飛ばされたのです。
ただ、元代において一流の儒者は朝廷に仕え、『二十二史箚記』巻三十の「元末殉難者多進士(元末の殉難者には進士が多い)」に記される通り、その多くが、南方の暴徒上りに膝を屈するのを潔しとせずに国難に殉じ、朱元璋に付いて行った「田舎儒者」がその後の時代を牽引するようになったため、その系譜に連なる江南の学統が正統とみなされるようになっていったのです。

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