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2021年 01月の記事(3)

ナントカ堂

ナントカ堂 2021年01月25日 23:17

郭企忠(郭子儀の子孫)

 日本版wikipediaの「郭子儀」の項の「子孫」の欄に郭企忠が記されていないので『金史』巻八十二から以下に訳します。


 郭企忠、字は元弼、唐の汾陽王の郭子儀の子孫である。郭氏は郭子儀から郭承勲に至るまで、全て北方の節度使となった。唐末に郭承勲が遼に入り、子孫が天徳軍節度使を継いで、郭昌金の代になって副使に降格となった。

 郭企忠は幼くして父を喪い、母に仕えて孝行で慎ましやかであった。十三歳のとき母が亡くなると、その悲しみ方は成人のようであった。喪が明けると父の官職を継ぎ、左散騎常侍を加えられた。

 天輔年間(1117~1123)、金軍が雲中に至り、耶律坦を遣わして諸部を招撫した。郭企忠が来降すると、主将は郭企忠を同勾当天徳軍節度使事に任命し、領民を率いて韓州に移り住むよう命じた。
 太祖が会い、尋ねてその家系を知ると、大いに礼遇して白鷹を賜った。

 天会三年(1125)、宋討伐の際、郭企忠は西南諸部の番と漢の兵を率い、猛安となった。雁門攻略に従軍して、その地に駐留することとなり、桂州管内観察留後を加えられて、代州に鎮守した。

 翌年、賊徒の楊麻胡らが五台で数千の兵を集めた。郭企忠は同知州事の迪里と共に討ち平らげた。

 知汾州事に昇進した。当時、汾州は金に降ったばかりで、住民の多くが兵士たちに戦利品として連れ去られ、領内は閑散としていた。郭企忠は帥府に出向くと「親族や知人が代価を払えば元の地に戻れるよう許可を願います。」と強く求め、帥府は従った。まもなく元通りに住民が戻ってきた。

 石州の賊の閻先生が数万の兵で汾州城の城壁の前まで迫った。部下は城内で変事が起こることを憂慮し、万一に備えるよう進言した。郭企忠は言った。
 「私は汾人に恩恵を与えた。信じる以外に無い。」
 そう言うと吏民を率いて城を守った。ちょうど援軍が到着したので、内と外で同時に攻撃し打ち破った。

 六年に静江軍節度留後に改められ、その後、天徳軍節度使・汴京歩軍都指揮使に昇進し、累進して金吾衛上将軍となった。任期満了で権沁州刺史となり、着任一年あまりで卒去した。享年六十八。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年01月24日 09:46

海陵王の師

『金史』巻百五から張用直の伝です。


 張用直は臨潢の人である。若いころから学問と行いで尊敬されていた。遼王の宗幹が評判を聞いて招聘し、自分の邸宅に住まわせた。海陵王とその兄の充は共に張用直に就いて学んだ。
 天眷二年(1139)、宗室の子を教育した功により進士及第の地位を賜り、礼部郎中に任じられた。
 皇統四年(1144)に宣徽判官となり、横海軍節度副使を経て、寧州刺史に改められ、海陵王が即位すると、中央に召されて簽書徽政院事・太常卿・太子詹事となった。

 海陵王は張用直に言った。
 「朕は経史に博く通じる事は出来なかったが、おおよその事は理解している。全て卿が昔、輔導してくれたおかげだ。太子はこれから学問を始める歳だが、よく善導してほしい。朕父子が揃って卿から学問を受ければ、儒者として栄誉であろう。」

 宋に元旦を祝う使者として遣わされ、汴にて卒去した。
 海陵王はその死を深く悼み、死者を遣わして官費で棺を都まで護送させ、皇帝自ら葬儀に参列して、銭千万を賜った。その養子は七歳になったばかりであったが、特別に武義将軍の地位を与えられた。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2021年01月09日 12:14

百多禄

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
 年末年始は仕事の連続で、本日やっと家でゆっくり出来たのでupします。
 今回も前回と同じく『大南寔録』「正編列伝初集」巻二十八から、百多禄です。
 百多禄はwikiにもピニョー・ド・ベーヌとして上げられていますが、ベトナム正史の視点からご覧ください。


 百多禄は監牧師と号し、西洋の富浪沙の人である。初めに渡海して嘉定・真臘間を旅し、密かに爺蘇敎を伝導した。多くの人々がこれに従った。
 庚子、世祖高皇帝が嘉定で即位すると、百多禄は拝謁して手柄を立てることを願い出、世祖は嘉納した。
 壬寅、西山軍が攻めてくると、世祖は国外に逃れ、皇太后と皇后は真臘に避難した。真臘人は叛逆を企て、不測の事態が起こりそうになった。百多禄はこれを知ると、仲間を率いて皇太后と皇后の保護策を講じてから、三阜に行き世祖に合流した。
 癸卯、世祖が海島に避難するのに従い、百多禄は先に暹(シャム)に行って援軍を求めた。
 甲辰秋、世祖が暹の兵を従えて嘉定に戻った。世祖は西山軍と戦って敗れ、再び暹に逃れる途中、真奔に人を遣わして百多禄を召し、皇長子の景を護衛して西(フランス)に行き援軍を求めるよう命じた。西に滞在すること四年、西人は援軍を送ることができなかった。
 己酉、既に世祖が嘉定を取り戻したため、百多禄は皇長子の景を護衛して戻ってきた。世祖は各地を奔走した功労を以って、百多禄に優遇を加え、達命調制戦艚水歩援兵監牧上師の地位を与え、皇太子の景もまた師の礼を以って遇した。
 癸丑、范文仁と共に皇太子の景を補佐して延慶城を守った。
 己未、帰仁遠征に従軍し、病のため陣中にて没した。太子太傅・悲柔郡公を追贈され、忠懿と諡されて、嘉定に帰葬され、墓守五十人が給された。

 その仲間で有名な者に幔槐・多突・吧呢𠲖・烏離爲・黎文棱がいて、みな富浪沙人である。また耶妬悲・麻怒𠲖は希波儒人である。

 幔槐は百多禄が推挙して、欽差該奇管中匡隊の地位に就いた。
 壬寅、西山軍が嘉定に攻め込むと、諸将は防戦し、七岐江に陣を敷いた。敵船は風の勢いに乗っ陣を突き、阮軍は全て撤退した。幔槐のみ西洋式の裹に銅を張った大船で力戦し、敵に四方を取り囲まれた。幔槐は脱出できないと見ると、焼身自殺した。後に効義功臣を追贈され、嘉定顕忠祠に配祀された。

 耶妬悲と麻怒𠲖も百多禄に従って軍功を挙げた。
 癸卯、呂宋に渡って援軍を求めるよう命じられ、途中で西山軍の船に遭遇し、殺された。

 多突・吧呢𠲖・黎文棱・烏離爲の四人は、百多禄に従って西から嘉定に来た。留まって臣下となることを願い出、みな該隊の地位を与えられた。
 多突は震、吧呢𠲖は勝との名を賜り、共に阮氏を賜姓された。たびたび従軍して、龍飛と鳳飛の二大船を指揮し、官職を歴任して掌奇にまで至った。明命初年、老齢のため帰国することを願い出て許可された。
 黎文棱は掌奇、烏離爲は神策軍班直後衛衛尉の地位にまで至った。

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