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2014年 03月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2014年03月02日 15:58

崇禎帝

wiki曰く
「崇禎帝は危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官すべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった

いやいや、忠臣は他にもいますよ。
『明史』巻三百「外戚伝」のうち「劉文炳伝」をここに訳します。
劉文炳、字は淇イン、宛平の人である。祖父の応元は徐氏を娶って娘を成し、この娘が後宮に入った。すなわち荘烈帝の生母の孝純皇太后である。応元は早くに亡くなった。帝が即位すると、太后の弟の効祖は新楽伯に封ぜられた。すなわち文炳の父である。崇禎八年に卒去して文炳が嗣いだ。この年、文炳の祖母の徐氏が七十歳となり、宝鈔・白金・文綺を賜った。帝は内侍に「太夫人は年老いてもなお聡明で食事もよく召し上がる。太后が存命ならなんと言って長寿を称えたであろうか。」と言うと悲しみに涙を流した。九年、文炳は新楽侯に昇進し、祖父と父にも同様に爵位が追贈された。
十三年、宮中に太后の肖像画が献上された。ある者がこれを似ていないと言った。帝は喜ばず、司礼監太監の王裕民と武英殿中書が文炳の家に行き、徐氏から太后の事を聞いて、肖像画を描き献上した。側近たちはみな「そっくりだ。」と言った。帝は大いに喜び、吉日を選び鹵簿を用意するよう命じ、帝が帰極門でひれ伏してこれを迎え入れ、奉慈殿に安置して、朝と夕に生きている人と同様に食事を奉った。このとき応元に瀛国公を追贈し、徐氏を瀛国太夫人に封じ、文炳は少傅に昇進、叔父の継祖、弟の文燿・文照も各々爵を上げられた。
文炳の母の杜氏は賢明な人で、ことあるごとに文炳たちにこう言った。「わが家は何の功績も無いのに太后の一族ということで大恩を受けています。天子に忠義を尽くしてこれに報いなくてはなりません。」
帝は文炳に鳳陽の祖陵に視察に行かせたとき、大事があったら報告するよう内密に命じた。文炳は帰ってくると、史可法と張国維が忠義心篤く知略もあるのでこれを永く任用すれば必ずや今天下に跋扈している賊を滅ぼせると報告した。果たしてのちに両人は国のために戦って死んだ。文炳は温厚で慎み深かったがみだりに交遊はせず、ただ宛平の太学生の申湛然と平民の黄尼麓、泰昌帝の娘婿の鞏永固とは仲が良かった。
当時は天下多難のときにあたり、流賊の勢いはますます盛んとなっていった。文炳は黄尼麓とともに忠義を尽くして都を守る手立てを講じていた。李自成が三秦に拠り、楡林を攻め落として、まさに都に攻め込もうという体勢になると、文炳はその勢いを支えきれないのを知り、慷慨して涙を流し、鞏永固に「国事がここに至れば、私は貴公と共に国の恩に対して死をもって報いる他は無い。」と言った。
十七年正月、帝は文炳や鞏永固たちを召して国事について尋ねると、二人は早急に永王と定王を藩王として封建し領国に向かわせるよう願った。帝はこれに賛成したが、国庫が乏しかったので出発させられなかった。
三月一日、賊が迫るとの報せがますます切迫してきたので、文武の勲戚に分担して京城を守備するよう命じた。継祖は皇城の東安門を守り、文燿は永定門、永固は崇文門を守った。継祖や文燿がそれぞれ宮城を守ったので文炳は特定の場所の守備には就かなかった。
十六日、賊は勢いよく西門を攻撃した。黄尼麓はよろよろした足取りで文炳のもとに来た。文炳は「城がまさに落ちようとしている。君は自分の安全を図りなさい。」と言った。文炳の母の杜氏はこれを聞くと、侍女に命じて、服を七、八個の箱に纏めさせて楼の上に上げ、使用人に命じて楼の下に薪を積ませた。そして老僕の鄭平を李氏と呉氏の家に遣わして二人の娘を実家に戻らせ「われら母娘はここで一緒に死ぬのです。」と言った。さらに瀛国太夫人は高齢のためともに焼身自殺を図るのが無理だと思い、文炳と話し合って、申湛然の家に匿ってもらった。
十八日、帝は内密に使者を遣わして文炳と鞏永固を召した。文炳は帰って母に「詔があって子が召されたので、子は母に仕えることができません。」と言った。母は文炳の背を軽く叩いてこう言った。「太夫人はすでに落ち着く場所が見つかったので、私はあなたの若い妻と妹と死ぬのみです。これ以上何を気にかける必要がありましょうか。」文炳は鞏永固とともに帝に拝謁した。このとき外城はすでに陥落していた。帝は「二卿は家の使用人を集めて市街で戦うことができるか?」と尋ねた。文炳が数の差がありすぎて戦えないと言うと帝は愕然とした。鞏永固は「臣らは、門を閉ざし薪を自宅に積み上げて焼け死ぬほかに、皇上のご恩に報いる手立てはありません。」と言った。帝は言った。「朕の意志は決まった。朕は社稷を守れなかったのだから、社稷の前で死ぬことしかできぬ。」文炳と鞏永固は涙を流して、死をもってご恩に報いることを誓った。崇文門まで走ると、賊が大挙して現れた。鞏永固が賊を射て、文炳がこれを助けて数十人を殺し、各々走って家に戻った。
十九日、文照が母に食事の世話をしていると、家人が急に入ってきて「城が落ちた。」と言った。文照は皿を地面に落とし、まっすぐ母を見た。母はにわかに立ち上がると楼に登った。文照と二人の娘がこれに従い、文炳の妻の王氏もまた楼に登った。孝純皇太后の像を懸けると、母が皆を率いて哭拝し、それから各々首を吊って死んだ。文照は首を入れた布が切れて落ち、母の背を軽く叩くと「子は死ぬことができませんでした。母の命に従い、太夫人の側に留まって仕えます。」と何度も言い、逃げ去った。家人は同時に楼を焼いた。文炳が帰ってくると火の勢いが激しくては入れなかった。宮城の裏手の庭園に入ると、ちょうど申湛然と黄尼麓に遭い、二人は「鞏都尉はすでに役宅に火をつけ自刎した。」と言った。文炳は「わかった。」と言い、井戸に身を投げようとしたが、突然こう言って立ち止まった。「軍装のままだ。それではあの世で皇帝にお目見えできぬ。」そこで申湛然が自分の冠を取って渡し、文炳はついに井戸に身を投じて死んだ。継祖もまた戻ってくると井戸に身を投じて死んだ。継祖の妻の左氏は家が燃えているのを見て、速やかに楼に登って自ら焼け死に、側室の董氏・李氏もまた焼け死んだ。文燿は外城が賊に破られると、渾河まで突き進んだが、内城が破られると戻ってきて、自宅が焼けているのを見て、「文燿はいまだ死なず、兄上は母のもとにいる。今ここに至ってどうして生きていられようか。」と言って大いに泣いた。そして文炳が死んだ場所を見つけると、井戸のそばの板に「左都督の劉文燿が兄の文炳とともに国の恩に報いて命を終えた所」と大きく書くと、また井戸に身を投げて死んだ。劉家で門を閉ざして死んだ者は四十二人。
このとき恵安伯の張慶臻も妻子を集めて一緒に焼け死に、新城侯の王国興もまた焼け死んだ。
宣城伯の衛時春は鉄券を胸に入れて、門を閉ざして井戸に身を投げて死んだ。
鞏永固とともに賊に矢を射ていた楊光陛は皇帝の娘婿の子である。よろいを着て馬を走らせ左右に射て、鞏永固と互いを見失い、矢が尽きて、観象台の下の井戸に身を投じて死んだ。
申湛然は瀛国太夫人を匿っていたため、居所を聞き出すために賊に拷問されたが、ついには何も話さず、体が焼け爛れて死んだ。
福王の時に、文炳には忠壮、文燿には忠果と諡した。

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