7/1に応援コメント下さった方へ
7/1に応援コメント下さった方、ありがとうございます。
言い訳になってしまいますが、管理ページの結構入り組んだところを開かないと見られない状態なため
今日、何の気なしにあちこち開いていたところようやく気が付きました。
実を申しますと、新しく出すごとにDL数が少なくなっているので気落ちしていたのでかなりうれしいです。
これからもがんばりますのでよろしくお願いいたします。
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ナントカ堂 2017年07月28日 21:28
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言い訳になってしまいますが、管理ページの結構入り組んだところを開かないと見られない状態なため
今日、何の気なしにあちこち開いていたところようやく気が付きました。
実を申しますと、新しく出すごとにDL数が少なくなっているので気落ちしていたのでかなりうれしいです。
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ナントカ堂 2017年07月10日 00:36
前回、哈国賢が土官かどうか疑わしいと書きましたが、一応よそから来た回回人でも土官になっている例はあるので考え所です。
『土官底簿』のうち雲南分だけ確認しましたが
例えば「彌沙井巡検司巡検」
初代の名が哈只。これはイスラムのハッジ巡礼者の尊称で、一応は本州の民とありますが、恐らくは元代に来て、明軍が来たときには土地になじんでいたのでそう記されているのでしょう
続いて「樣備巡検司巡検」
初代が馬回回定と記されていますがこれは多分回回の馬定の意で、子が哈麻で孫が沙保とイスラム風。馬姓も恐らくは鄭和の家と同じくマホメットの子孫ということでしょう
次に「赤水鵬巡検司土官巡検」
初代が馬速魯麻でその父が阿剌馬丹。明軍が攻め入ったとき通事を務め招諭を行った功績として土官の地位を与えられています。
続いて「永寧府知府」
「卜都各吉は瀾滄衛の西番人で先祖は本州の土官である。」とあって、西番人がここに来て土着したことがはっきりと分かります。
最後に「永平県県丞」
「馬鎖飛は雲南金歯軍民指揮使司永平県の回回人で本県の通事であったものが洪武十二年帰附し本県土官県丞とされた。」とあってこれも明確な回回人です。
回回人とは別に『土官底簿』を見ていくと、道案内をしたから登用されて土官になったとか、義兵を集めて明軍に協力したので土官の地位を授けられたとか記されていて、元代までは平民であった者が好機を捕らえて土官となった事例が散見される一方、「大理叢書・金石篇」に見られるように、有史以来の名門の九隆族の人々が処士になっているパターンが多く見られます。
ナントカ堂 2017年07月09日 00:29
前回に引き続きこぼれ話を
今回「おまけ」に、「衛選簿」にある雲南の土官を入れたわけですが、雲南分には五十九家残っているものの、他の地域では現存しているものが四家しかありません
そこで数も少ないわけなのでここに挙げておきます
唐倫が『中国明朝档案総匯』五十六p.48~49、、火鎮が同p.232~233、張機が同p.262~263、哈国賢は五十八のp.239~240に収録されています。ただし唐倫の場合は二代目の唐斌から通常の武官となっています。
哈国賢は一応「土官」と記されているので入れましたが「達官」(達達=タタール=モンゴル系)の書き間違いの可能性があります。
哈密(現新疆ウイグル自治区)の回回人で、広西の茘浦で軍功を挙げたのでそのまま同じく広西の桂林の武官に。
なんかいきなり土官になる要素がないような気が・・・
一応、画像クリックすると大きくなって内容が読めるようにはなっています。
ナントカ堂 2017年07月04日 20:09
皆様、『全訳南詔野史』はお楽しみいただけたでしょうか。
今回を含めて三回、こぼれネタを記します。
今回はごく短く
最近は新年号が話題になっていて、今まで使われていない元号を審議しています。
今回『南詔野史』を訳していて気が付いたのですが、明治は段素英の時代に、大正は莫方瀛の時代に使われていたのですね
この頃はまだ元号選定に関わるほどの大学者たちも、大理国やベトナムの歴史を確認するすべが無かったのでしょうか
『雲南通志』を見ていて気になったこと
巻二十下に、木邦軍民宣慰使は蜀漢の時代の木鹿王の子孫である、と書かれているんですが、木鹿大王は『三国志演義』の架空のキャラだった気が・・・
ナントカ堂 2017年07月01日 12:24
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南詔国の始まりから明前期までの雲南地方の歴史を記した『南詔野史』の訳です。
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