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2017年 11月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2017年11月21日 18:20

耽羅国の王統

以下は『長興高氏世譜』の序文の訳です。

瀛洲は全羅道の南の海上九百七十里ほどにある。もとは九韓の一つで、一説に九韓の時代に亡羅との国号を付け、新羅から耽羅という名で封ぜられ、百済から耽牟羅という名で封ぜられたという。また泰岳の一部を漢ダ(如の下に手)山といい神の山である。初め瀛洲には人がいなかったが、突如、漢ダ山の北の穴から三人の神人が湧き出した。これは九韓の時代のことで、長子を良乙那、次子を高乙那、第三子を夫乙那といい、立派な風貌であった。皮を着、肉を食べて暮らしていたが、ある日、漢ダ山に登って遠くを見ると、東の海に紫に塗られた木箱が浮かびそこから離れなかった。不思議に思った三神人は山を降りて箱を取り開けてみると、鳥の卵のような箱が入っていた。それを壊すと中から十五、六歳ほどの美しい娘が三人と馬・牛・五穀が現れた。この地は金塘、今朝(李氏朝鮮時代)の天館下浦である。三神人が「これは天がわれらに授けたものだ」と喜び合っていると、さらに箱の中から鳥の羽の頭巾に紅色の帯、青い服を着た使者が現れて稽首再拝しこう言った。「私は東方の海上にある碧浪国の使者です。わが王にこの三人の娘が生まれましたが、適齢期になっても夫となる者が居らず、誰かに嫁がせたいと思いながら数年経ちました。近ごろ王が紫霄閣に登って気を観察すると、西方に紫の気が連なるという瑞兆があり、その朧げな中、突き出した山頂から三人の神人が湧き出すのが見えました。これはまさに国が興る初めであり、各人妻がいないであろうと考えた王は、三人の娘を送るよう臣に命じたのです。」拝礼が終わり自分の務めが済んだ使者は、忽然と雲に乗っていずこかへと消えていった。三神人は身を清めて天に報告すると、歳の順に娘を娶り、良い泉があって土地が肥沃な地を矢を射て占い住むことにした。高乙那の居所は一番目に矢が当たった都沃ダ(如の下に手)山の北、良乙那の居所は二番目の漢ダ山の右の南山の一帯、夫乙那の居所は三番目の漢ダ山の左の南土山の一帯である。これより産業が始まり、五穀を植えて馬や牛を飼った。日に日に裕福になって行き、九百年経ったとき、三人は各自石を射て力比べをし優劣を決めることになった。高乙那が優れていたので君長となり、次が良乙那であったので臣となり、次が夫乙那であったので民になった。国号はタク(宅の下)牟としたがこれは穀物が多く茂るという意味である。
始祖の高乙那の子は建、 建の子は三継、三継の子は日望、日望の子は島済、島済の子は彦卿、彦卿の子は宝明、宝明の子は幸天、幸天の子は歓、歓の子は湜、湜の子は烱、烱の子は偉、偉の子は瑩、瑩の子は厚・孕・季の三兄弟で相次いで十五代位を継いでいった。
この三人は船を造って海を渡り耽津にたどり着いた。これは新羅の最盛期のことである。このとき客星が南方に見えたので、太史がこう奏上した。「異国の人が来朝する前兆です。」まもなく厚たちが来たので王は「私には徳が無いのにこのような立派な客人が来て喜ばしいことだ。」と言って大いに喜び、厚を星主とした。これは星の前兆があったためである。孕に股下をくぐらせて、自分の子と同様に愛し、王子と呼んで清と改名させた。季は都内矢という官職に就けた。国号を耽羅としたのは、初めに着いた港が耽津であったためで、新羅に朝貢する際には南化国と称した。各々衣冠と宝蓋を賜り、南都まで警護が付けられて、車や騎兵、運搬車が百里も連なった。これより子孫は繁栄し、新羅を敬って仕え、代々星主の職を受け藩臣となった。
新羅の烈宗の時代、耽羅王の高タン(老子の字と同じ)が広巡使の良宕と安撫使の夫継良を新羅に朝貢させると、多大な褒賞を受け衣冠を賜り、良を梁に夫を浮に改姓させた。梁と浮の姓はこれより始まった。耽羅主の高タンは厚の十二代目の子孫である。
斗ヘイ(ひとがしらに丙)の子が斗明、斗明の子が善主、善主の子が知南、知南の子が聖邦、聖邦の子が文星、文星の子が翼、翼の子が之孝、之孝の子が淑、淑の子が賢方、賢方の子がキ(玉偏に幾)、キの子がタンであり、代々藩臣として仕えたが、その後臣従しない者が現れた。
東城王の二十一年、耽羅は朝貢せず、これに怒った王は四十騎を率いて親征し、武瑞舟(原注:現在の南県)に到着した。これを聞いた耽羅南化王の高昭が使者を遣わして謝罪したので戦は中止になった。昭はタンの十七代目の子孫である。
タンの子は指雲、指雲の子は瑞、瑞の子は多鳴、多鳴の子は体参、体参の子は声振、声振の子は鴻、鴻の子は処良、処良の子は遠、遠の子は表崙、表崙の子はケイ(しんにょうに向)、ケイの子は致道、致道の子は勗、勗の子は天元、天元の子は好恭、好恭の子は昭である。
昭の子孫は百済の文周王に仕え、星主を恩率、国号を耽牟羅と改めた。文武王のときに恩率から佐平になった。
高麗の太祖が三韓を統合して法律を改めると、高自堅を再び星主とした。その三年後、高麗が耽羅に出兵して平定し、耽羅は降伏して郡県が設置された。以後高氏の子孫は代々高麗の爵を受けるようになった。
太祖の二十二年、耽羅国王は太子の末老を朝貢させ星主王子の爵を賜った。粛宗の時代に郡に改められ、毅宗の時代に県に降格となった。甲午の年の秋、高適は山林に姿を晦まし三年間自給自足で暮らした。このことを聞いた王は廉直使の柳希に命じて車を用意して迎えに行かせ、監察御史大夫に任じた。この高適は高昭の九代目の子孫で始祖から数えて五十代目である。
昭の子の敬直は恩率の爵位を受けた。敬直の子は岷で佐平の爵位を受けた。岷の子は自堅で星主のの爵位を受けた。自堅の子は末老、末老の子は維である。
高維は高麗の靖宗の乙酉歳に尚書省の試験で主席となり、翌年丙戌の科挙では李仁梃と同時に賓貢(外人枠)として三位に入り右僕射となった。
維の子は啓基である。啓基は初名を唐愈といい、睿王の丁亥に科挙に受かって、政堂文学・参知政事から中書侍郎・平章吏部事となった。
啓基の子は梃益・梃琥・誠明の三兄弟で、梃益の子が適である。
元宗王の丁卯に科挙に受かり、八年間朝廷に出仕した後、王に涙ながらに拝謁して職を辞し、帰郷した。このころしばしば兵乱が起きて国が不安定であったため、これを避けて林渓郡の山林に住んだ。このため子孫も隠棲する場合には林渓郡に住むようになった。元宗の八年、神義軍の三別抄が叛いて耽羅に入った。官軍がこれを殲滅した後、高適を耽羅に留めて総管とし、残った民を呼び集め安心させるよう命じた。戊寅の夏に朝廷に赴き拝謁すると金牌を授けられて代々地位を受け継ぐこととなった。
また十年になるまでの間、文行老や金通精らが相次いで叛乱を起こし、三別抄軍を指揮して珍島に拠った。王は侍郎の高汝林を遣わし、高汝林は兵千を率いてこれに備えた。結局三別抄は珍島を抜け出して耽羅に入り四年間立て籠もった。王は金方慶を遣わして討伐した。
忠烈王の三年、元の皇帝は総管営を設置し、牧場を作って牧邑を置き、牛・馬・ラクダ・羊を放牧した。そして達魯花赤を派遣して牧子を監督させた。十六年、牧子が横暴に振る舞いたびたび郡守や県令を殺したので、金ユ信に牧子を討たせ、万戸府の設置を求めた。忠烈王の三年、王が自ら元の朝廷に赴き、耽羅を再び高麗の所属に戻すことを求めた。そこで耽羅は済州と改められ、牧使と判官が置かれた。二十六年に奇皇后が馬を放牧させて軍民万戸府が設置したため耽羅は乱れ、高貞幹や高巡らは隠棲して出仕しなかった。三十一年に再び高麗の所属となった。忠粛王の五年に兵士の用厳卜らが乱を起こし、これを平定すると高麗の朝廷から派遣された官吏が統治するようになった。恭愍王の十一年に高福寿を星主に封じた。元の牧子らは高福寿に反抗して元の朝廷に訴えたので、再び万戸府が設置された。元が滅んで明の洪武帝が即位した年の八月、耽羅が高麗のものになると、元の牧子が再び猛威を振るい、次々と人を殺した。国家より派遣されていた万戸の王泰や有力者らが自分たちで官吏を任命し牧子を選んだ。飼育した馬を洪武帝に献上すると、洪武帝はこれを受理した。このころ高貞幹が卒去して跡継ぎが居らず、高清以来三十代の血筋が絶えた。そこで娘の子の文臣輔を王子に封じた。二十一年、元の牧子の石加牌や肖古道らが東西の哈亦を自称して官吏を殺害した。その六年後、王子の文臣輔は弟の王臣吉を朝廷に遣わしてこのことを報告した。これは洪武七年、即ち恭愍王の二十三年甲寅のことである。その年の八月、都統使の崔瑩を遣わして平定し、哈亦を討ち取って、捕らえた賊徒を奴婢にした。建文四年太宗の二年壬午冬十月、星主の高礼鳳や王子の文忠世らが、星主や王子という爵は身分を弁えない称号のようにみえるので、星主を左都知管とするよう申し出た。永楽十四年、太宗の十六年丙申、按撫使の兵が来て耽羅を鎮め、済州・大静・旋義の三邑を設置した。正統十年、世宗の二十七年乙丑、左右の都知管を廃止して、邑中の学者の高承祖を三邑都知・上鎮撫とした。高承祖は高適の十二代目の子孫、高適の子は高汝林で、汝林が耽羅にいた頃の子孫である。汝林は中書侍郎までなり、林渓にいた頃の子孫も高い官位と爵を受けた。
汝林の子は貞幹、貞幹の子は巡、巡の子は福寿、福寿の子は因朝・季佐・公済の三兄弟で、因朝が星主の爵を継いだ。因朝の子は碩で、碩は西道千戸となった。碩の子は順良で、星主を世襲した。弟の順元が星主を継ぎ、順良(原注:あるいは順元)の子の臣傑は戸部典書となった。臣傑には仁鳳・義鳳・礼鳳・智鳳の四子がいた。この兄弟には三人子がいて得侍・得俘と、智鳳の独り子である得宗である。得宗はただ一人の子であるのみならず末子の子孫として、代々続いた家系が忘れ去られないようにここに記すものである。
景泰元年庚午正月元日、崇禄大夫行吏部尚書・漢城判尹の高得宗がここに詳述する。

これに続いて歴代の族譜が記されています。

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