Language

  • 日本語
  • English
  • 简体中文
  • 繁體中文
  • 한국어

Translated by machine

投稿記事

2018年 03月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2018年03月22日 00:55

賈似道の父

日本では賈似道のことはある程度知られていますが、その父である賈渉のことはあまり知られていません。
『宋史』巻四百三には金から領土を奪還した軍事的英雄として描かれており、以下に訳します。


賈渉、字は済川、天台の人である。幼い頃から古の書を読むのを好み、意気盛んにして大志があった。父の蔭位で高郵尉に任命され、その後、万安丞となった。宝応県令に欠員ができたので、中書省から臨時に県令を代行するよう命じられて赴任し、宝応に城を築くことを提言した。工事が始まってから喪に服すため辞任した。金軍が光州を攻めると、賈渉は宝応県令として復帰し、さらに真州通判から、大理司直・クイ軍知軍となった。

淮に住む季先と沈鐸は、山東の住民を味方に付けるよう楚州知州の応純之に説いた。そこで応純之は沈鐸に、周用和を楊友・劉全・李全らのもとに遣わしてその軍勢を帰順させるよう命じた。初めに説得に応じて帰順した石珪・葛平・楊徳広は纏めて「忠義軍」と名付けられた。その後、石珪らが反抗して漣水で沈鐸を殺したので、応純之を罷免して、通判の梁丙に知州を代行させた。梁丙は、石珪らに食糧を支給しないことにより自潰することを狙ったが、石珪や楊徳広らは漣水の諸軍を率いて淮河を渡り、南渡門に駐屯し、周囲を略奪して焼き払い「朝廷が金との和睦を望むなら、わが軍はどこに身の置き所があろうか。」と言った。梁丙は李全と季先にこれを防がせたが、事態は収まらず緊迫した。このとき賈渉は宝応に在ってこう上書した。「わが国への帰順が相次いだため金国は和睦を求めました。ここで高澄をけしかけて侯景を離反させたのと同様の策を用いれば、山東の混乱は必ずや両淮にまで及ぶでしょう。まして今、金国は金銭と食糧が欠乏しています。ここで和睦して、溜まっていた数年分の歳幣を贈ったなら、飢えた虎に肉を食わせるようなもので、肉を平らげれば噛み付いてくるでしょう。忠義の人々がどんどん押し寄せるなら、制限を設けずに一軍と成し、淮河北岸に住まわせれば、多少の金銭で永遠の安心が得られるというものです。飢えれば人に噛み付き、満腹なら人の命令に従うのは当然なことでしょう。」そこで賈渉を淮東提点刑獄兼楚州節制本路京東忠義人兵に任命した。賈渉は着任するとすぐに傅翼を石珪らのもとに遣わして逆順禍福をもって説得させ、自らは簡易な車に乗って山陽まで行った。楊徳広らは賈渉を出迎えると地に伏して謝罪し、心を入れ替えて仕えることを誓った。

金の太子と僕散万忠・盧国瑞らが数十万の大軍で攻め入り、同時に石珪らを味方に付けようと考えた。石珪らが金に付くのではないかと心配した賈渉は、急ぎ陳孝忠をジョ州に向かわせた。石珪は夏全・時青と共に濠州に、李先・葛平・楊徳広はジョ・濠に向かわせ、李全と李福は帰路を押さえさせて、傅翼を監軍とした。数日後、陳孝忠から戦勝報告が届いた。石珪は数度に亘り金軍を破って、遂には李先・李全と共に安豊に進軍した。安豊では金軍が百以上の砦を築いて包囲していたが、石珪らはその包囲を破った。李全は僕散万忠と共に宋に帰順した。このことは「李全伝」に見える。以後六、七年の間金軍が淮東を狙うことは無かった。

葛平・楊徳広らは南渡門の変に関わっていたが、賈渉は投降を受け入れてその件については不問に付した。しかし葛平らはなおも二心を懐いていたため、賈渉は密かに李先に謀殺させた。このため李先の勢力も孤立した。忠義諸軍は漣水と山陽に駐屯しかなりの数になっていた。賈渉はこれらが乱を起こすことを心配して、ジョ・濠の戦いを機に、石珪・陳孝忠・夏全の軍を二箇所に分けて駐屯させ、李全軍は五つの砦に分けた。さらに陝西での義勇軍の選別法を用いて、諸軍から三万人ほどを整理し、改組された者は六万人未満、常駐する兵を七万あまりとして、朝廷の毎年の経費を三、四割減らした。

賈渉はさらに李全に一万人を指揮させて海州・密州・イ州を取らせ、王琳には寧海州・登州・莱州を、青州知州の張林には浜・棣・シ州を降らせ、済州・沂州などを取らせた。これより恩・博・景・からケイ・メイなど十余州が相次いで帰順を申し出た。賈渉は中原に対してこのような布告を出した。「治める土地ごと来帰し武器を執って今までの行いを償おうとする者に対し、朝廷は土地を与え封爵することを惜しまない。」これは諸将を励まし州郡を帰順させるものであった。賈渉は太府少卿・制置副使兼京東河北節制に抜擢された。

金が十万以上の軍で黄州を攻撃し、淮西の総大将の趙善湘が朝廷に援軍を求めた。賈渉は李全らに援軍に向かわせ、テキ朝宗らがこれに続いた。丞相の史弥遠は李全を留後に昇進させようとしたが、賈渉は言った。「李全は初めは貧困で何も出来ない立場でしたが、財産を気前よく人に分け与えて兵と苦楽を共にしたので、配下は喜んで命令に従うようになりました。このため遂には主帥になりましたが、ここで態度を豹変して、多くの者に怨まれ兵たちは皆不満を感じています。近ごろでは西城を放棄し、死罪とならなかっただけでも幸運です。もし理由も無く昇進させたなら傲慢になってしまい、李全のためにならず、国家のためにもなりません。もし李全を昇進させるというのであれば、諸将も同時に昇進させてください。」金軍が黄州を破りキ州を攻め落として、安慶も危うくなったが、李全が援軍として駆けつけたので事態は収まった。李全が久長鎮まで行くと、京湖制置使の趙方の子の趙范と趙葵がいたので、協力して連戦連勝した。さらに彭義斌らに下湾渡まで進軍させて、淮で金軍を殲滅した。このため権吏部侍郎に昇進した。金軍が再び淮西を攻めた。これ以前のこと、キ州が包囲されて徐暉が援軍として来た。徐暉は兵を鼓舞して、夜になると逃亡した。金軍はこの隙に乗じて城壁を登り、キ州は皆殺しになった。前の総大将は敢えて徐暉の責任を問おうとはしなかった。賈渉は徐暉を斬ってその首を皆に示した。諸将は畏怖して、賈渉の命令には必ず従うようになった。こうして淮西における宋の勢力は拡大した。

以前にテキ朝宗は玉璽を手に入れて朝廷に献上した。このときになって趙拱が玉印を持って戻ってきた。その玉印は玉璽と文が同じで寸法が大きかった。朝廷では玉印が手に入ったことを喜んで、祝賀し人々に恩賞を与えることになった。こうした中、賈渉は史弥遠にこのような書状を送った。「天意は隠れて計りがたく人間社会の出来事は身近で分かりやすいものです。私が思うに現在の人間社会はまだ天意に適うものではありません。昔はひたすら金を滅ぼすことだけを考えればよかったのですが、今ではこれとは別に山東の忠義軍と北辺について対策を立てねばならず、速やかに考慮すべきです。」史弥遠は不快に思った。結局、李全は玉璽に関わった恩賞で節度使となった。そこで賈渉はこう言った。「盜賊は今や血気盛んで、その官職も分を越えており、後の災いになるでしょう。」史弥遠が納得しないでいると、賈渉は言った。「朝廷はただ官爵を与えることで歓心を得ようとしていますが、一層驕慢になることを知るべきです。」

賈渉はこの頃既に病に罹り辞職を強く願っていたが、金軍が大攻勢を掛けていたため、無理を押して政務を執っていた。金将の時全・合連・孛朮魯答哥は細軍と諸軍を率いて三道から淮河を渡った。合連が戦上手であったため、賈渉は張恵にこれに当たるよう命じた。張恵は金の驍将で「賽張飛」と呼ばれていた者であった。宋に帰順したとき、金はその妻を殺した。麾下の兵は花帽軍といい、規律正しくその強さは他の軍が及ばないほどであった。張恵は諸軍を率いて出撃し、辰の刻から酉刻まで戦って、金軍を大いに撃ち破った。答哥は溺死し、金軍の大半が失われ、細軍も二千の戦死者を出した。賈渉は病状が進んだので都に戻ることを許され、金から得た京河の版籍と金銀牌銅印などを朝廷に献上した。卒去すると特別に龍図閣学士・光禄大夫を追贈された。

賈渉の父の賈偉はかつて守開江であったころ、武興守の呉挺の専横を糾弾する書状を丞相の趙雄に送った。また帝に拝謁したとき、郭棣と郭杲から兵権を取り上げるよう進言した。孝宗は喜んで聞き入れたが、後に報復されて職を追われ、そのまま没した。賈渉は若い頃から父の冤罪を訴え、暑さ寒さも構わず十年間哀訴し続けて、ようやく汚名を晴らすことが出来た。子の賈似道には別に伝がある。

\いいね・ツイートで記事ランキングアップ!/
ツイート
  • クリエイタータグ

最新の記事

月別アーカイブ

記事のタグから探す

限定特典から探す

記事を検索