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2017年 10月の記事(1)

ナントカ堂

ナントカ堂 2017年10月27日 06:38

徐達の子孫

徐達の子は四人で輝祖・添福・増寿・膺緒。
このうち添福は早世し、子孫は三系統。
『明史』は魏国公の輝祖と定国公の増寿の系統についてある程度記しています。
まず輝祖の系統(「功臣世表」に基づく。左が兄)
輝祖


┣━━━┓
顕宗 承宗

フ(人偏に甫)

(一代空欄)

鵬挙

邦瑞

維志

弘基

文爵

これに対して『明功臣封爵考』では鵬挙の父を奎璧とし、鵬挙の子は邦賢・邦瑞・邦栄・邦慶・邦華・邦泰・邦寧。全て庶子で、庶長子の邦賢には子が無く、庶次子の邦瑞が継いだとあります。
さらに欽の妻の墓誌である「魏国公夫人何氏壙誌」では、欽の子は男子は顕宗・承宗ともう一人紹宗がいたとあり、何氏の実家は錦衣衛指揮使の家柄で、欽の女子は長女が武平衛指揮僉事の王禧に、次女は鷹楊衛指揮使の蒋通に、三女は含山公主の次男の尹淳に嫁いだとあって、これらの家が上流階級として通婚していた様子が窺えます。
またフ(人偏に甫)についても本人の墓誌と夫人の朱氏の墓誌があります。
欠損箇所が多いため不明な点がままありますが、夫人の朱氏は朱能の子孫で成国公の家柄。男子は奎璧の他に次男が応宿、三男が天賜で、応宿は墓誌にのみ見えるので早世したと思われ、天賜は『明実録』に南京錦衣衛指揮僉事に任じられたとあります。女子は六人いて襄城伯の李輔・鎮遠侯の顧溥・南京刑科給事中の史後・南京錦衣衛指揮使の王漢・南京済川衛指揮使の楊武・雲南鎮守金歯都督の沐崧に嫁いでいます。
維志の墓誌も残っており「母夫人沐氏、生母兪氏」とあって、父の正妻の沐氏に子が無く兪氏の所生。彰武伯の楊炳が義父、没したとき四十一歳で、男子は二人、弘基は少保・臨淮侯の李言恭(李文忠の子孫)の娘を娶り、もう一人の男子の弘謨と女子一人はまだ幼い、とあります。

増寿の系統は「功臣世表」では
増寿―景昌―顕忠―永寧―世英―光祚―延徳―文璧―延輔―希―允禎と父子一直線に書かれているだけですが、『明功臣封爵考』には、顕忠の弟に顕義、世英の弟に世華・世芳・世茂、光祚の弟に光祀、延輔の弟が延勣・延慎・延亮、文璧の弟に文サン(玉偏に粲)・文瑞・文キ(玉偏に幾)・文キ(玉偏に己)・文ハン(玉偏に番)がいたことが記されています。

膺緒について『明史』はほとんど記していませんが、残された墓誌は興味深く、膺緒の曽祖父が五四・祖父が四七・祖父が六四(洪武帝の父の名が五四であるのと同じく名前)で、高祖母が何氏・曾祖母が周氏・祖母が蔡氏・母が謝氏と、徐達以前の系譜が分かります。また同じ墓誌に、四十五歳で没したとき、男子は景コウ(玉偏に行)・景コウ(玉偏に黄)・景セン(玉偏に睿)・景瑜・景瑛・景セン(玉偏に宣)の六人、女子はまだ嫁いでいないとあります。
膺緒の子孫は「南京錦衣衛選簿」に三系統の記述が残されています。

「徐登瀛」の項によれば景コウ(玉偏に行)の子孫は世襲指揮僉事(正四品)。
景コウ―顕隆―鐸―世勲―訪―登瀛―得禄―永年
と直系で続き、万暦四十年(1612)に比試が免除されたとの記事で終わっています。
景コウは『明実録』では永楽二十二年(1424)十月癸丑条に、膺緒の子として景コウと兄弟が帝に拝謁して勉学に励むよう諭告があり、翌日の条に景コウを中軍都督府都督僉事(正二品)、景セン(玉偏に睿)を金吾前衛指揮僉事(正四品)として、家で勉学に励むように命じられています。
また正統十一年(1446)二月壬寅条には景コウが卒去したため一日朝政を停止して哀悼したとあり、重んじられていたことが分かります。
子の顕隆は中都署正留守。正留守は正二品相当ですが、「署」なので錦衣衛指揮僉事のまま職務を代行していたと思われます。顕隆あたりまでは外戚として優遇されていたようですが鐸以降は皇帝と血統が疎遠になったためその他の指揮僉事と同じ扱いになったようで『明実録』に見られなくなります。

「徐志道」の項によれば景コウ(玉偏に黄)は膺緒の庶長子で子孫は世襲指揮僉事となりました。
景コウは衛選簿だけ見ると特に何か問題が在ったようには見えませんが、『明実録』の宣徳六年(1431)十二月乙巳条を見ると、景コウと景瑜が囚人護送中に逃げられて、北京守備で襄城伯の李隆が隠蔽していたものを都察院が告発し、さらに景コウが傲慢な物言いをしたため法司が斬罪とするよう進言したところ、宣徳帝は「建国の功臣の子孫で外戚でもあるので斬るに忍びず、しばらく辺境に飛ばして反省させよう。」と言ったので隆慶衛(居庸関)に左遷した、との記事が見られます。
ただ、その後の景泰二年(1451)十二月乙丑朔条に、景コウが中都副留守(正三品)として皇陵で盗伐を行っていた者の処罰について意見しているのでいつの間にか復帰していたようです。その翌年の景泰三年六月戊辰条では既に没しており、子の顕綬を百戸とした記事が、景泰七年七月丁酉条には顕綬が父の指揮僉事を継いだ記事があります。さらに成化二十一年(1485)六月丁亥条に、顕綬の子の伯寬が父と交代で指揮僉事となり、このとき兵部から「景コウは軍功も無しに指揮僉事を授けられたので世襲させるべきではない」との意見が出たものの、成化帝が特別に世襲を許したとあります。
この家系も皇帝と疎遠になったため以降『明実録』に現れなくなりますが、衛選簿には八代目の弘胤が万暦三十年(1602)に比試に受かったところまでが記されています。

両系統とも世襲としては指揮僉事(正四品)なのに『明史』では世襲指揮使(正三品)としており、『明史』結構いい加減に書いているな、と思います。

「徐梅鶴」の項によれば景瑜の子孫は南京錦衣衛屯田所世襲正千戸(正五品)となりました。
嫡男の景コウ(玉偏に行)、庶長子の景コウ(玉偏に黄)に比べ、弟の景瑜は正千戸に過ぎず、上記の兄と囚人に逃げられた記事以降は『明実録』には現れなくなります。衛選簿を見てもその後数代は大したことをしておらず地位も正千戸のままなのですが、九代目の維京は南京の錦衣衛屯田所に所属しながらも出向として遼東都司僉書という地位に就き、天啓元年(1620)にヌルハチが遼陽城を攻め落としたときに戦死したため三級上がって指揮使になったと記されています。
おそらくこの維京の親族と思われるのが清代の徐湛恩で、『郎潜紀聞』に「侍郎の徐湛恩は明の功臣中山王の子孫である。明末に関外の都指揮として遼陽に移り住み、清朝になると正藍旗漢軍に属した。」とあります。
湛恩は↓のように内閣学士として治水工事に従事し、輝祖と増寿の系統が明の滅亡と共に没落したのに対し、旗人として清代の支配者層の一員となりました。
http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:0:mctauac:NO=NO12299


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