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2020年 07月の記事(5)

ナントカ堂

ナントカ堂 2020年07月31日 00:30

衛選簿に見る雲南地域の土司・回族・モンゴル系

 前々回の話の衛選簿つながりで、『全訳南詔野史』で挙げた雲南地域の土司・回族・モンゴル系を以下に記します。
 (人名は見出しにあるもの)



段尭臣:雲南左衛・中左所・署正千戸事副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八・p.521~522)
馬俊:雲南左衛・中左所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.530)
張嘉名:雲南左衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十八・p.531~532)
李鰲:雲南左衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.534~535)
可常友:雲南左衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.535~536)
趙承恩:雲南左衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.540)
楊景秀:雲南左衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.521~522)
李応時:雲南左衛・中左所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.543~544)
李世栄:雲南左衛・中左所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.544~545)
金詔:雲南左衛・中左所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.545~546)
楊湘:雲南右衛・署指揮同知(『中国明朝档案総匯』五十九雲南右衛p.16~17)
金重:雲南右衛・署指揮同知指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.17~18)
張弼:雲南右衛・中左所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.143)
黄邦佐:雲南右衛・中左所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.143~144)
楊応時:雲南右衛・中左所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.145)
陳新表:雲南右衛・中左所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.147~148)
李タン(日に山):雲南右衛・中左所・世襲百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.148~149)
尹爵:雲南右衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.152)
梁永:雲南右衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.153)
楊増:雲南右衛・中左所・土官百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.153~154)
趙維藩:雲南右衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.154~155)
李潤:雲南右衛・中左所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.155~156)
張鳳羽:雲南右衛・中左所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.157~158)
陳爵:雲南右衛・中左所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.158~159)
譚登:臨安衛・後所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.231)
衛国:臨安衛・後所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.232~233)
杜華:臨安衛・後所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.234)
楊思忠:木密関守禦所・百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.477~478)
蘇継勲:鳳梧守禦所・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.492)
金紹奎:鳳梧守禦所・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.493)
李崑:鳳梧守禦所・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.494)
李節:鳳梧守禦所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.494~495)
李資元:鳳梧守禦所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.495~496)
李躬行:鳳梧守禦所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.496~497)
金守仁:鳳梧守禦所・署指揮同知事指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.497~498)
楊順誠:鳳梧守禦所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.498~499
楊学:鳳梧守禦所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.499~500)
諸愛:鳳梧守禦所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.500~501)
趙雲漢:鳳梧守禦所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.501~502)
李崇:鳳梧守禦所・世襲百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.502)
段錦:鳳梧守禦所・百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.503)
李同桂:鳳梧守禦所・実授百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.503)
章璞:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.504)
張コン(昆に鳥):鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.504~505)
楊啓東:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.505~506)
李遇春:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.506~507)
楊祖胤:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.507)
施浩:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.508)
楊啓良:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.508~509)
黄朝用:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.509~510)
李傑:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.510)
李継武:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.511)
李文潮:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.511~512)
張翼文:鳳梧守禦所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.512)
完大縉:鳳梧守禦所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.513)

回族

速泰:雲南左衛・右所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.427~428)
塔冲霄:雲南左衛・中所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.455~456)
速尚卿:雲南左衛・中左所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.527~528)

モンゴル系

短可久:雲南左衛・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十八p.397~398)
甯梧:雲南左衛・左所・衛鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十八p.408)
完俸禄:雲南左衛・右所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.426)
劉鉞:雲南左衛・右所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.428~429)
喬珊:雲南左衛・右所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.439~440)
李約:雲南左衛・右所・所鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十八p.446~447)
劉朝元:雲南左衛・前所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.476)
楊銘:雲南右衛・衛鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十九p.24~25)
董昻:雲南右衛・衛鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十九p.25~26)
王輔:雲南右衛・後所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九・p.139)
魯仲昻:臨安衛・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.177~178)
劉賓:臨安衛・左所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.188~189)
火仲和:臨安衛・中左所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.239)
高冕:臨安衛・前前所・副千戸(『中国明朝档案総匯』五十九臨安衛・前前所p.275~276)
李東山:越州衛・中前所・正千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.335~336)
張輔:雲南後衛・前所・試百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.423)
王威:大羅衛・指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.447~448)
卜坤:大羅衛・左所・世襲百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.455~456)


 最近、『明代衛所選簿校注 雲南巻貴州巻』が出たようです。(2万くらいなので、今、困窮状態なためちょっと手が出ませんが・・・)
 でも衛選簿って所々字が潰れて読めない箇所があるので(もとは鞍の裏に補強として張ってあったというのもあります)こういうのは大変ありがたいです。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年07月16日 22:43

楊業は無敵か

 宋代が好きな人は楊業大ファンの人が多いので、こんなこと書くと怒られそうですが、楊業は言われるほど無敵なのかどうか


 開宝二年、太祖の軍は晋陽を包囲し、四面に砦を設置して、党進に東面を任せた。まだ隊列が整う前に、太原の驍将の楊業が突騎数百を率いて襲来した。党進は奮身し数人の部下と共に楊業を撃退した。楊業は急ぎ空堀の中に入った。そこに援軍が来たため、楊業は空堀から這い上がり城内に入ってようやく助かった。太祖は党進を激賞した。
(『宋史』巻二百六十「党進」)

 荊嗣が進軍して汾河に迫ると、敵将の楊業が橋を押さえていた。荊嗣はこれと何度も戦って、敵を退け橋を渡った。楊業の麾下の兵を千人ほど殺し、楊業の従騎に矢を当て、多くの旗・鼓・鎧・甲を獲得した。楊業は城内に退いた。
(『宋史』巻二百七十二「荊嗣」)

 太原の驍将の楊業が兵を率いて洪洞県を攻めた。田欽祚はこれを打ち破り、首を千以上斬り、馬数百を獲得した。
(『宋史』巻二百七十四「田欽祚」)

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年07月12日 08:35

元末明初の群雄の旧臣

 前回、衛選簿の中の張士誠の旧臣について記したので、今回も『全訳国初群雄事略』からその他群雄の旧臣を。
 と、その前に衛選簿について簡単な説明。
 明の武官は、正一品より遥か上位の二十家ほどある公・侯・伯は別格として、正三品の指揮使を始め千戸・百戸・鎮撫などが世襲で、正一品の都督や正二品の都指揮使などは本人の力量により一代限りで与えられます。
 このうち指揮使以下、武官の代々の経歴や相続について記された名簿が衛選簿です。
 なお衛選簿の収録されている『中国明朝档案総匯』は国会図書館や東洋文庫等で閲覧可能です。(但し活字ではなく元の手書き文字の白黒写真版です)

◎韓林児と劉福通

張従:劉福通の下で元帥。明に帰順して総旗。最終的に興武衛百戸。(『中国明朝档案総匯』五十三p.200~201)
扈敬:劉福通の下で元帥。温州衛百戸となり、父が老齢のため扈徳が代わりに官職を継ぎ金郷衛中所副千戸。最終的に定海衛中所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十四p.399~400)
韋斌:父が劉福通の下で兵。明に帰順して、最終的に西安左衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.158)
李福先:伯父が劉福通の下で兵。明に帰順して、最終的に小旗。老齢のため甥の李斌が代替して小旗となり、靖南の役で軍功を挙げて寧夏前衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』五十六p.404)
劉成:安豊の頭目。明に帰順して百戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.405)
康羔:安豊の指揮使。明に帰順して最終的に指揮使となるも、永楽三年に罪により副千戸(『中国明朝档案総匯』六十三p.446)
張潔:父が安豊の頭目。明に帰順し、靖南の役で軍功を挙げて指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十五p.11)

◎陳友諒

朱昶:陳友諒時代には総管。明に帰順して兵となり、最終的に平涼衛副千戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.254)
李詳:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に甘州中護衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.332)
劉景:陳友諒時代には万戸。明に帰順して兵となり、最終的に保寧守禦衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十七p.486)
姜志:陳友諒時代には頭目。明に帰順して兵となり、最終的に成都左護衛前所副千戸。子孫が指揮同知に昇進(『中国明朝档案総匯』五十七p.206)
唐受:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に成都左護衛後所百戸。(『中国明朝档案総匯』五十七p.293)
余友:陳友諒時代には総管。明に帰順して所鎮撫となり、最終的に威州守禦千戸所所鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十七p.403)
劉徳:陳友諒時代には頭目。明に帰順して小旗となり、最終的に安南衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.205)
王清:陳友諒時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に留守中衛水軍所千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.385)
蘭真:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に平越衛総旗。子孫が署副千戸に昇進(『中国明朝档案総匯』六十p.96)
王英:陳友諒時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に鎮江衛前所百戸(『中国明朝档案総匯』六十一p.74)
蹇福:陳友諒時代には千戸。胡平章に付き従って帰順し同知、最終的に懐遠衛前所百戸(『中国明朝档案総匯』六十二p.404)
張福:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に福州右衛中左所百戸(『中国明朝档案総匯』六十四p.353)
時興:陳友諒時代には兵。明に帰順して、大寧衛副千戸のときに戦死した功で、弟が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十五p.303)
袁秀:陳友諒時代には万戸。明に帰順して百戸となり、最終的に天策衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十七p.339)
李彦誠:陳友諒時代には兵。明に帰順後、老齢により子の楊郎が代わりに兵となり、楊郎は最終的に太倉衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十八p.11)
胡勝:陳友諒時代には兵。しばらく民で洪武十一年に志願して兵。最終的に豹韜衛後所副千戸(『中国明朝档案総匯』六十九p.20)
鄭忠:陳友諒時代には総管。明に帰順して指揮僉事、河南右護衛に異動して、最終的に指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十九p.20)
陳安:陳友諒時代には元帥。明に帰順して兵となり、最終的に宣府前衛前所副千戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十九p.180)
江忠:陳友諒時代には指揮使。明に帰順して兵となりそのまま病没。子の江富が軍功により蔚州衛指揮使(『中国明朝档案総匯』七十p.233)
蕭徳阿:陳友諒時代には千戸。明に帰順して兵となり、最終的に蔚州衛中左所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』七十p.233)
周継文:徐寿輝の下で万戸、陳友諒の下で元帥府同知。明に帰順して兵となり、最終的に振武衛中後所百戸。子孫が千戸(『中国明朝档案総匯』七十一p.136)
李秩:陳友諒時代には鎮撫。明に帰順して、最終的に鎮西衛前所百戸。(『中国明朝档案総匯』七十一p.265)
謝和:陳友諒時代には元帥。明に帰順して百戸となり、最終的に副千戸。子の謝智が鎮虜衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』七十一p.373)
陳全:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に羽林左衛前所百戸。(『中国明朝档案総匯』七十二p.231)

◎方国珍

顔良:方国珍時代には百戸。明に帰順して総旗となり戦死。子の荘が徳州衛副千戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.266)
張友光:方国珍時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子孫が長陵衛右所試百戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.284)
張友光:方国珍時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子孫が畳渓守禦所百戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.422)


◎拡廓帖木児(=王保保)

孫虎:王保保時代には頭目。明に帰順して、最終的に登州衛百戸・捕倭典刑。子孫が副千戸。(『中国明朝档案総匯』五十二p.306)
周成:王保保時代には同知。明に帰順して、最終的に西安左衛後所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.144)
陳大:王保保時代には兵。明に帰順して、最終的に寧夏前衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.428)
楚智:王保保時代には湖広省左丞同知。明に帰順して銀牌総先鋒。最終的に雲南左衛前所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.476)
邵義:王保保時代には頭目。明に帰順して総旗。最終的に鎮西衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』七十一p.220)

 また『青溪暇筆』に「拡廓帖木児、すなわち王保保は、自らの家が代々王に封ぜられていたため、王を姓とした。今の旗手衛の王指揮はその族孫である」、『七修類稿』巻十三に「金陵の旗手衛の指揮の王某は王保保の末裔である。」とあります。

◎納哈出

歪頭:納哈出時代には兵最終的に小旗。子孫が錦衣衛指揮僉事『中国明朝档案総匯』四十九p.428~429)
宋冬里不花:納哈出時代には鎮撫。明に帰順して総旗。(『中国明朝档案総匯』六十一p.329~330)
王思斉:納哈出時代には大常僉院。最終的に高郵衛所鎮撫。(『中国明朝档案総匯』六十一p.373~374)
魏把郎:納哈出時代には頭目。明に帰順して百戸。後に降格して所鎮撫。(『中国明朝档案総匯』五十九p.331~332)
長吉帖木児:納哈出時代には総旗。靖難の役で指揮同知まで昇進して戦死。子の亦禿帖木児も軍功を挙げて指揮使・都指揮僉事。(『中国明朝档案総匯』五十p.514)

◎陳友定

余仲:陳友定の下で鎮撫。明に帰順して百戸となり、罪により兵に降格された後、許されて再び百戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.363)

◎李思斉

 李思斉の場合はその子孫の衛選簿が残されており、子孫は雲南の臨安衛の世襲指揮僉事で、万暦四十六年(1618)に十五代目が跡を継いだことまでが分かります。(『中国明朝档案総匯』五十九 P.181~182)
 他に李思斉時代に頭目で、子孫が雲南後衛副千戸となった魏晟の分が残されています。(『中国明朝档案総匯』五十九 P.430~431)

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年07月05日 08:15

張士誠

以下『全訳国初群雄事略』からの転載なのでお買い上げいただいた方はスルーしてください。



 現存する衛選簿の中の張士誠の旧臣。(少なくとも子孫が万暦年間あたりまで続いている家系)

宋奐:張士誠時代には万戸。明に帰順して小旗となり、最終的に錦衣衛百戸(『中国明朝档案総匯』四十九p.229)
馬志:張士誠時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に総旗。子孫が錦衣衛指揮使(『中国明朝档案総匯』四十九p.455)
石家奴:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に武平衛左所千戸(『中国明朝档案総匯』五十二p.300)
王貴:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に青州左衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十五p.50)
朱徳:張士誠時代には千戸。明に帰順して兵となり臨トウ衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.108)
蔡文貴:張士誠時代には百戸。明に帰順して総旗。子孫が西安左衛後所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.171)
丁賢:張士誠時代には千戸。明に帰順して小旗。最終的に総旗。子孫が平涼衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.222)
朱綱:張士誠時代には兵。明に帰順して小旗。最終的に成都右後衛後所千戸。(『中国明朝档案総匯』五十七p.258)
陳傑:張士誠時代には元帥副使。明に帰順して百戸。最終的に成都後衛百戸。子の陳志亮が成都左後衛後所千戸(『中国明朝档案総匯』五十七p.299)
賀誠:張士誠時代には同僉。明に帰順して百戸。最終的に雲南左衛右所副千戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十八p.398)
侯仲:張士誠時代には副使。明に帰順して小旗。最終的に臨安衛左所百戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.186)
黄得:張士誠時代には百戸。明に帰順して総旗。最終的に蘇州衛中所百戸。(『中国明朝档案総匯』五十九p.186)
姚勝:張士誠時代には守禦。明に帰順して副千戸。負傷により引退。子の姚文礼が皇陵衛右所千戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.218)
楊得山:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に懐遠衛左所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』六十二p.334)
湯全:張士誠時代には省都鎮撫。明に帰順して百戸、最終的に永定衛前所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』六十四p.177)
呉雄:張士誠時代には元帥。明に帰順して百戸。最終的に長沙護衛百戸(『中国明朝档案総匯』六十七p.512)
夏旺:張士誠時代には総管。明に帰順して兵となり、最終的に徐州衛百戸。(『中国明朝档案総匯』六十八p.123)
楊春:張士誠時代には万戸。明に帰順して所鎮撫でそのまま。子孫が指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十九p.109)
呉旺:張士誠時代には万戸。明に帰順して百戸でそのまま。子孫が宣府左衛右所署指揮僉事正千戸(『中国明朝档案総匯』六十九p.378)
張真:張士誠時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子の張儼が徳州衛中所副千戸(『中国明朝档案総匯』七十二p.190)
盛正:張士誠時代には万戸。明に帰順して百戸、最終的に鷹揚衛前所副千戸。子孫が指揮同知(『中国明朝档案総匯』七十二p.278)
馮幸:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に山丹衛左所副千戸。(『中国明朝档案総匯』七十二p.372)


 『隆平紀事』の金姫の逸話。


 金姫李氏、名は金児、章丘の人である。李素の娘で占いに精通していた。張士誠が挙兵すると、李素の家族は全員捕らえられた。金児はまだ笄を付ける年にはなっておらず、太妃曹氏の侍女となった。高郵が包囲され、落城が間近になったとき、金児は占って「固守すれば敵は退却します。」と言った。その後、果たして包囲が解け、金児は「仙姑」と呼ばれるようになった。張士誠が長江を渡ろうとした際、金姫が占ったところ、吉と出て、果たして平江を平定した。平江に都を移そうと話し合われると、金姫だけが、江南に居を定めるのは不可で、居ればどうなるか分からないと言い、詩に托してそれとなく伝えたが、張士誠は聞き入れなかった。張士誠は外に出る際は金姫を召して同行させ、たびたび吉凶を尋ねた。金姫は「呉に入った後は、今まで以上に国家について深くお考えになる以外にありません。」と言った。金姫は、張士誠が日増しに驕り高ぶる様子を見て、張士誠に正論を述べて直させようとした。張士誠は金姫に対してはあえてどうこうすることもなかった。張士誠が呉王を称すると、金姫を王妃にしようと考えた。金姫は「事が成れば、妃としてください。」と言ったが、断りきれないと見ると、太妃に別れを告げた後、外に出て天を拝し、まもなく息絶えた。張士誠は金姫を福山港口に葬り、全ての珠玉を共に埋葬した。ある日、張士誠の妻の劉氏の夢の中で、金姫が「国家が大いに間違っており、これをどうにかするのは無理でしょう。」と言って泣いていたという。また他の日にも夢で張士誠の二子を撫でて「不測の事態が起こるので、陰ながら助けとなりましょう。」と言ったという。明軍が平江を攻めた。張士誠は何度も敗れて、金姫の言葉を思い出し、仙姫に加封して、祠で占った。今、常熟の西北に金姫の塚があり、転訛して「金鶏」と呼ばれている。

 平江の包囲が激しくなると、張士誠は密かに小児を街角に置いた。顧姓の者がこれを拾い上げ隠すと、金二錠が出てきて、その服には龍鳳文があった。そこで人々はこれが張士誠の子であると知った。この子は食事のたびに椅子と食卓が必要で、もし地面に座らせたなら、食事を与えても食べず、宮中のしきたりを身につけていた。成長すると顧姓を名乗り、宣徳年間(1426~1435)にはまだ健在であった。その人の子が顧都で、太僕の穆尚が知り合い、呉で塾の教師をしていた。また平江が攻め落とされる直前に、張士誠の妻の劉夫人は二子を金姫の母と二人の乳母に托して、民家に隠した。戦いがやや収まってから、金姫の母は密かに城から出て、金姫の墓に行った。すると墓はすでに乱兵に掘り返され、遺体はなくなっており、ただ服だけが残っていた。その傍らを掘ると珠玉がまだ残っていたので、これを全て集めて二子を連れて章丘に戻り、玉を市で金に換えた。二子は成長すると李姓を名乗った。洪武末に、下の子が郷薦により都に行くこととなった。そこで母はこのように言伝した。「都の某所に八十歳を越えた盲目の私の母がいる。密かに訪ねて、まだ生きていれば、私は問題なく暮らしていると伝えて欲しい。」下の子は言われたとおり訪ねてみた。盲目の母はその声を聞き、両手で顔を撫でてこう言った。「どこの子かは知らぬが、声はわが弟に似ている。国が亡んで幸いにも子を残すことができたようだが、どうして死を賭してまでここに来てしまったのだ。」そして押して外に出すと、戸を閉めて入ることを拒んだ。盲目の母とは張士誠の姉で、赦されて死を免れ、当時は孤児の世話をして評判であった。翌日、李は病と称して急ぎ帰郷し、子孫は代々章丘に籍を置いて続いているという。

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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年07月01日 00:15

張叔夜

『水滸伝』で有名な宋江を降した張叔夜。
日本語のネットで見てもよく分からないので『宋史』巻三百五十三の本人の伝を訳してみましょう。



 張叔夜、字はケイ仲、侍中の張耆の孫である。若いころから軍事を語るのを好み、蔭位により蘭州録事参軍となった。
 蘭州は本は漢の金城郡で宋領の最果ての地に当たり、黄河を天険として恃みとしていた。そこで毎年黄河が氷結して渡れるようになると、必ず厳戒態勢を取り、兵士たちは何か月も鎧を脱げなかった。
 張叔夜は言った。
 「これは誤った対策である。要地を守ろうとせず、敵が黄河まで至ったなら、その時点で既に終わりだ。」
 大都という地があった。五つの路と接する要衝で、羌人は宋領に攻め入る際、必ずここに集結してから、どの方面に攻撃するかを協議していた。このため羌人が大都に来るたびに五路は恐怖していた。張叔夜は大都の地形を見て作戦を立て、奪取すると西安州を打ち建てた。以後、蘭州には羌への不安は無くなった。
 張叔夜が襄城と陳留の知県となると、蒋之奇の推薦により、礼賓副使・通事舎人・安粛軍知軍に改められたが、前職の方が適していると言う者がいたため元に戻された。能力を示すため文を献じて舒・海・泰の三州の知州となり、大観年間に庫部員外郎・開封少尹となった。再び文を献じて都に召され、試されて制誥を作成し、進士出身の地位を与えられた。その後、右司員外郎に昇進した。
 遼に使者として遣わされると、宴席で矢を射、最も的中した。遼人は感嘆し、引いた弓を見せてほしいと頼んだが、前例が無かったので拒んで渡さなかった。帰国すると、遼の山川・城郭・服器・儀範を図にしたもの五篇を作成して献上した。
 従弟の張克公が蔡京を弾劾した。蔡京の怒りは張叔夜にも向かい、些細な過失を見つけて監西安草場に左遷した。しばらく経ってから呼び戻されて秘書少監となり、中書舎人・給事中に昇進した。
 このころ官吏は堕落していて、門下省で命令を出す場合、先に官職・氏名を書いた命令書を預けておき、後から内容を書いていた。これを「空黄」と言っていた。張叔夜は強く主張してこの弊害を無くした。
 礼部侍郎に昇進したが、再び蔡京に憎まれて、徽猷閣待制の地位で海州知州に赴任した。
 宋江が河朔で挙兵して十郡を荒らしまわり、官軍はその鋭鋒に敢えて戦おうとしなかった。宋江軍が海州に来ると聞いた張叔夜は、間者に動向を探らせた。宋江軍は海辺に向かい、大型船十数隻を奪って略奪した品を積み込んだとのことであった。張叔夜が決死の士を募ると千人集まった。そこで張叔夜は城の近くに伏兵を配置し、軽装の兵を海の近くに出して攻撃を誘った。また先に決死の士を海岸に潜ませ、宋江軍が軽装の兵を攻撃したところで、火を付けて船を焼いた。宋江はこれを知ると戦意を失い、その機に乗じて伏兵が攻め、宋江軍副将を捕えた。このため宋江も降伏した。
 張叔夜は直学士を加えられ、済南府に異動となった。このとき山東の群盜が突如襲来した。張叔夜は敵に適わないと見ると部下に言った。
 「手をこまねいて援軍を待つだけなら民は皆殺しになるであろう。計略を以って敵の攻勢を緩める他無い。三日持ちこたえれば私には手立てがある。」
 そこで以前に作成された賊を赦免する文書を取り出し、伝令兵に命じて郡に届けさせた。賊はこの事を知るとやや気を緩めた。張叔夜は城門の上で宴会を開き油断している素振りを見せ、下吏を遣わして温情が掛けられるであろうと説得した。賊は疑って日が暮れるまで出方を決めかねていた。そこへ張叔夜が兵五千で油断に乗じて攻めたため、賊は壊滅した。追撃して数千人を討ち取った。この功により龍図閣直学士・青州知州に昇進した。
 靖康元年に金が南下すると、張叔夜は二度、朝廷より騎兵を借りて諸将と力を合わせ、金軍の退路を断つことを申し出る書状を送ったが、朝廷から返答は無かった。鄧州に異動となり、四道に総司令官が置かれると、張叔夜は南道都総管となった。
 金軍が再び襲来すると、欽宗は自筆の書状を張叔夜に送り、急ぎ都に戻って護衛するよう命じた。これを受け取った張叔夜は、即座に自らは中軍を、子の伯奮は前軍を、仲熊は後軍を指揮し、総勢三万人で、翌日には都に向かった。尉氏に至ると金軍の遊撃隊に遭遇し、転戦して前進した。
 十一月晦日に都に到着すると、欽宗は南薰門まで来て会い、その軍容が整然としている様子を見た。宮中に入って拝謁すると、張叔夜は言った。
 「敵の勢いは盛んです。唐の玄宗が安禄山から避難したように、一時的に襄陽に移って後日を期すべきです。」
 欽宗は頷き、張叔夜に延康殿学士を加えた。
 閏十一月、欽宗は城壁に登り、張叔夜は玉津園に兵を整列させた。鎧兜が光り、張叔夜は城壁の下で拝礼した。欽宗はますます喜び、張叔夜を資政殿学士に昇進させて、兵を率いて城内に入るよう命じた。、まもなく張叔夜は簽書枢密院となった。
 張叔夜は四日連続で金軍と大いに戦い、金環を付けた高位の将二人を斬った。欽宗は使者に密書を持たせて、張叔夜の功労を褒めて諸道はこれに協力するよう檄を飛ばしたが、駆け付ける者は誰もいなかった。都は陥落し、張叔夜は傷を負ったが、父子はなおも力戦した。
 欽宗が金軍の陣に向かおうとすると、張叔夜は馬を叩いて諌めた。欽宗は言った。
 「民の命のために朕自身が行かなくてはならない。」
 張叔夜は号泣しながら二度拝礼し、兵たちもみな声を上げて泣いた。欽宗は振り返ると字でこう呼びかけた。
 「ケイ仲はよく力を尽くした。」
 金は異姓の者を皇帝にしようと協議した。張叔夜は孫傅に言った。
 「今日の事、死あるのみ。」
 そして宗翰と宗望に「民の希望に従って欽宗の太子を立てるように」との書状を送った。二人は怒り、軍中に呼び出すと、張叔夜は書状と同様に太子を立てる事を求めたため、遂には二帝と共に北に連行されることとなった。
 張叔夜は道中で食事を摂らず、ただ時折湯だけを飲んだ。白溝に到着すると、馭者が「界河を過ぎた。」と言った。張叔夜は驚いて立ち上がると、天を仰いで大声で叫び、その後、再び言葉を発することは無かった。翌日卒去した。享年六十三。訃報が届くと、開府儀同三司を追贈され、忠文と諡された。



 祖父の張耆と、張耆の子の張希一・張利一の伝は『宋史』巻二百九十にあります
 張耆は真宗がまだ皇太子であったころから側近くで仕え、即位後取り立てられて対契丹戦に従事し、徐国公・侍中にまで至っています。
 また張希一・張利一は蔭位により官職に就いて対契丹戦に従事しています。

 このように代々将を輩出する家は、本場中国では「将門」と呼ばれています。
 将門について書籍になっているものでは
 https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=456975&bookType=ch
 とか
 https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=376831&bookType=ch
 など
 その他、論文が多数あります。

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