ナントカ堂 2020/07/12 08:35

元末明初の群雄の旧臣

 前回、衛選簿の中の張士誠の旧臣について記したので、今回も『全訳国初群雄事略』からその他群雄の旧臣を。
 と、その前に衛選簿について簡単な説明。
 明の武官は、正一品より遥か上位の二十家ほどある公・侯・伯は別格として、正三品の指揮使を始め千戸・百戸・鎮撫などが世襲で、正一品の都督や正二品の都指揮使などは本人の力量により一代限りで与えられます。
 このうち指揮使以下、武官の代々の経歴や相続について記された名簿が衛選簿です。
 なお衛選簿の収録されている『中国明朝档案総匯』は国会図書館や東洋文庫等で閲覧可能です。(但し活字ではなく元の手書き文字の白黒写真版です)

◎韓林児と劉福通

張従:劉福通の下で元帥。明に帰順して総旗。最終的に興武衛百戸。(『中国明朝档案総匯』五十三p.200~201)
扈敬:劉福通の下で元帥。温州衛百戸となり、父が老齢のため扈徳が代わりに官職を継ぎ金郷衛中所副千戸。最終的に定海衛中所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十四p.399~400)
韋斌:父が劉福通の下で兵。明に帰順して、最終的に西安左衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.158)
李福先:伯父が劉福通の下で兵。明に帰順して、最終的に小旗。老齢のため甥の李斌が代替して小旗となり、靖南の役で軍功を挙げて寧夏前衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』五十六p.404)
劉成:安豊の頭目。明に帰順して百戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.405)
康羔:安豊の指揮使。明に帰順して最終的に指揮使となるも、永楽三年に罪により副千戸(『中国明朝档案総匯』六十三p.446)
張潔:父が安豊の頭目。明に帰順し、靖南の役で軍功を挙げて指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十五p.11)

◎陳友諒

朱昶:陳友諒時代には総管。明に帰順して兵となり、最終的に平涼衛副千戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.254)
李詳:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に甘州中護衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.332)
劉景:陳友諒時代には万戸。明に帰順して兵となり、最終的に保寧守禦衛百戸(『中国明朝档案総匯』五十七p.486)
姜志:陳友諒時代には頭目。明に帰順して兵となり、最終的に成都左護衛前所副千戸。子孫が指揮同知に昇進(『中国明朝档案総匯』五十七p.206)
唐受:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に成都左護衛後所百戸。(『中国明朝档案総匯』五十七p.293)
余友:陳友諒時代には総管。明に帰順して所鎮撫となり、最終的に威州守禦千戸所所鎮撫(『中国明朝档案総匯』五十七p.403)
劉徳:陳友諒時代には頭目。明に帰順して小旗となり、最終的に安南衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.205)
王清:陳友諒時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に留守中衛水軍所千戸(『中国明朝档案総匯』五十九p.385)
蘭真:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に平越衛総旗。子孫が署副千戸に昇進(『中国明朝档案総匯』六十p.96)
王英:陳友諒時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に鎮江衛前所百戸(『中国明朝档案総匯』六十一p.74)
蹇福:陳友諒時代には千戸。胡平章に付き従って帰順し同知、最終的に懐遠衛前所百戸(『中国明朝档案総匯』六十二p.404)
張福:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に福州右衛中左所百戸(『中国明朝档案総匯』六十四p.353)
時興:陳友諒時代には兵。明に帰順して、大寧衛副千戸のときに戦死した功で、弟が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十五p.303)
袁秀:陳友諒時代には万戸。明に帰順して百戸となり、最終的に天策衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十七p.339)
李彦誠:陳友諒時代には兵。明に帰順後、老齢により子の楊郎が代わりに兵となり、楊郎は最終的に太倉衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十八p.11)
胡勝:陳友諒時代には兵。しばらく民で洪武十一年に志願して兵。最終的に豹韜衛後所副千戸(『中国明朝档案総匯』六十九p.20)
鄭忠:陳友諒時代には総管。明に帰順して指揮僉事、河南右護衛に異動して、最終的に指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十九p.20)
陳安:陳友諒時代には元帥。明に帰順して兵となり、最終的に宣府前衛前所副千戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』六十九p.180)
江忠:陳友諒時代には指揮使。明に帰順して兵となりそのまま病没。子の江富が軍功により蔚州衛指揮使(『中国明朝档案総匯』七十p.233)
蕭徳阿:陳友諒時代には千戸。明に帰順して兵となり、最終的に蔚州衛中左所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』七十p.233)
周継文:徐寿輝の下で万戸、陳友諒の下で元帥府同知。明に帰順して兵となり、最終的に振武衛中後所百戸。子孫が千戸(『中国明朝档案総匯』七十一p.136)
李秩:陳友諒時代には鎮撫。明に帰順して、最終的に鎮西衛前所百戸。(『中国明朝档案総匯』七十一p.265)
謝和:陳友諒時代には元帥。明に帰順して百戸となり、最終的に副千戸。子の謝智が鎮虜衛指揮同知(『中国明朝档案総匯』七十一p.373)
陳全:陳友諒時代には兵。明に帰順して、最終的に羽林左衛前所百戸。(『中国明朝档案総匯』七十二p.231)

◎方国珍

顔良:方国珍時代には百戸。明に帰順して総旗となり戦死。子の荘が徳州衛副千戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.266)
張友光:方国珍時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子孫が長陵衛右所試百戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.284)
張友光:方国珍時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子孫が畳渓守禦所百戸(『中国明朝档案総匯』五十三p.422)


◎拡廓帖木児(=王保保)

孫虎:王保保時代には頭目。明に帰順して、最終的に登州衛百戸・捕倭典刑。子孫が副千戸。(『中国明朝档案総匯』五十二p.306)
周成:王保保時代には同知。明に帰順して、最終的に西安左衛後所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.144)
陳大:王保保時代には兵。明に帰順して、最終的に寧夏前衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.428)
楚智:王保保時代には湖広省左丞同知。明に帰順して銀牌総先鋒。最終的に雲南左衛前所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十八p.476)
邵義:王保保時代には頭目。明に帰順して総旗。最終的に鎮西衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』七十一p.220)

 また『青溪暇筆』に「拡廓帖木児、すなわち王保保は、自らの家が代々王に封ぜられていたため、王を姓とした。今の旗手衛の王指揮はその族孫である」、『七修類稿』巻十三に「金陵の旗手衛の指揮の王某は王保保の末裔である。」とあります。

◎納哈出

歪頭:納哈出時代には兵最終的に小旗。子孫が錦衣衛指揮僉事『中国明朝档案総匯』四十九p.428~429)
宋冬里不花:納哈出時代には鎮撫。明に帰順して総旗。(『中国明朝档案総匯』六十一p.329~330)
王思斉:納哈出時代には大常僉院。最終的に高郵衛所鎮撫。(『中国明朝档案総匯』六十一p.373~374)
魏把郎:納哈出時代には頭目。明に帰順して百戸。後に降格して所鎮撫。(『中国明朝档案総匯』五十九p.331~332)
長吉帖木児:納哈出時代には総旗。靖難の役で指揮同知まで昇進して戦死。子の亦禿帖木児も軍功を挙げて指揮使・都指揮僉事。(『中国明朝档案総匯』五十p.514)

◎陳友定

余仲:陳友定の下で鎮撫。明に帰順して百戸となり、罪により兵に降格された後、許されて再び百戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.363)

◎李思斉

 李思斉の場合はその子孫の衛選簿が残されており、子孫は雲南の臨安衛の世襲指揮僉事で、万暦四十六年(1618)に十五代目が跡を継いだことまでが分かります。(『中国明朝档案総匯』五十九 P.181~182)
 他に李思斉時代に頭目で、子孫が雲南後衛副千戸となった魏晟の分が残されています。(『中国明朝档案総匯』五十九 P.430~431)

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