ナントカ堂 2020/07/01 00:15

張叔夜

『水滸伝』で有名な宋江を降した張叔夜。
日本語のネットで見てもよく分からないので『宋史』巻三百五十三の本人の伝を訳してみましょう。



 張叔夜、字はケイ仲、侍中の張耆の孫である。若いころから軍事を語るのを好み、蔭位により蘭州録事参軍となった。
 蘭州は本は漢の金城郡で宋領の最果ての地に当たり、黄河を天険として恃みとしていた。そこで毎年黄河が氷結して渡れるようになると、必ず厳戒態勢を取り、兵士たちは何か月も鎧を脱げなかった。
 張叔夜は言った。
 「これは誤った対策である。要地を守ろうとせず、敵が黄河まで至ったなら、その時点で既に終わりだ。」
 大都という地があった。五つの路と接する要衝で、羌人は宋領に攻め入る際、必ずここに集結してから、どの方面に攻撃するかを協議していた。このため羌人が大都に来るたびに五路は恐怖していた。張叔夜は大都の地形を見て作戦を立て、奪取すると西安州を打ち建てた。以後、蘭州には羌への不安は無くなった。
 張叔夜が襄城と陳留の知県となると、蒋之奇の推薦により、礼賓副使・通事舎人・安粛軍知軍に改められたが、前職の方が適していると言う者がいたため元に戻された。能力を示すため文を献じて舒・海・泰の三州の知州となり、大観年間に庫部員外郎・開封少尹となった。再び文を献じて都に召され、試されて制誥を作成し、進士出身の地位を与えられた。その後、右司員外郎に昇進した。
 遼に使者として遣わされると、宴席で矢を射、最も的中した。遼人は感嘆し、引いた弓を見せてほしいと頼んだが、前例が無かったので拒んで渡さなかった。帰国すると、遼の山川・城郭・服器・儀範を図にしたもの五篇を作成して献上した。
 従弟の張克公が蔡京を弾劾した。蔡京の怒りは張叔夜にも向かい、些細な過失を見つけて監西安草場に左遷した。しばらく経ってから呼び戻されて秘書少監となり、中書舎人・給事中に昇進した。
 このころ官吏は堕落していて、門下省で命令を出す場合、先に官職・氏名を書いた命令書を預けておき、後から内容を書いていた。これを「空黄」と言っていた。張叔夜は強く主張してこの弊害を無くした。
 礼部侍郎に昇進したが、再び蔡京に憎まれて、徽猷閣待制の地位で海州知州に赴任した。
 宋江が河朔で挙兵して十郡を荒らしまわり、官軍はその鋭鋒に敢えて戦おうとしなかった。宋江軍が海州に来ると聞いた張叔夜は、間者に動向を探らせた。宋江軍は海辺に向かい、大型船十数隻を奪って略奪した品を積み込んだとのことであった。張叔夜が決死の士を募ると千人集まった。そこで張叔夜は城の近くに伏兵を配置し、軽装の兵を海の近くに出して攻撃を誘った。また先に決死の士を海岸に潜ませ、宋江軍が軽装の兵を攻撃したところで、火を付けて船を焼いた。宋江はこれを知ると戦意を失い、その機に乗じて伏兵が攻め、宋江軍副将を捕えた。このため宋江も降伏した。
 張叔夜は直学士を加えられ、済南府に異動となった。このとき山東の群盜が突如襲来した。張叔夜は敵に適わないと見ると部下に言った。
 「手をこまねいて援軍を待つだけなら民は皆殺しになるであろう。計略を以って敵の攻勢を緩める他無い。三日持ちこたえれば私には手立てがある。」
 そこで以前に作成された賊を赦免する文書を取り出し、伝令兵に命じて郡に届けさせた。賊はこの事を知るとやや気を緩めた。張叔夜は城門の上で宴会を開き油断している素振りを見せ、下吏を遣わして温情が掛けられるであろうと説得した。賊は疑って日が暮れるまで出方を決めかねていた。そこへ張叔夜が兵五千で油断に乗じて攻めたため、賊は壊滅した。追撃して数千人を討ち取った。この功により龍図閣直学士・青州知州に昇進した。
 靖康元年に金が南下すると、張叔夜は二度、朝廷より騎兵を借りて諸将と力を合わせ、金軍の退路を断つことを申し出る書状を送ったが、朝廷から返答は無かった。鄧州に異動となり、四道に総司令官が置かれると、張叔夜は南道都総管となった。
 金軍が再び襲来すると、欽宗は自筆の書状を張叔夜に送り、急ぎ都に戻って護衛するよう命じた。これを受け取った張叔夜は、即座に自らは中軍を、子の伯奮は前軍を、仲熊は後軍を指揮し、総勢三万人で、翌日には都に向かった。尉氏に至ると金軍の遊撃隊に遭遇し、転戦して前進した。
 十一月晦日に都に到着すると、欽宗は南薰門まで来て会い、その軍容が整然としている様子を見た。宮中に入って拝謁すると、張叔夜は言った。
 「敵の勢いは盛んです。唐の玄宗が安禄山から避難したように、一時的に襄陽に移って後日を期すべきです。」
 欽宗は頷き、張叔夜に延康殿学士を加えた。
 閏十一月、欽宗は城壁に登り、張叔夜は玉津園に兵を整列させた。鎧兜が光り、張叔夜は城壁の下で拝礼した。欽宗はますます喜び、張叔夜を資政殿学士に昇進させて、兵を率いて城内に入るよう命じた。、まもなく張叔夜は簽書枢密院となった。
 張叔夜は四日連続で金軍と大いに戦い、金環を付けた高位の将二人を斬った。欽宗は使者に密書を持たせて、張叔夜の功労を褒めて諸道はこれに協力するよう檄を飛ばしたが、駆け付ける者は誰もいなかった。都は陥落し、張叔夜は傷を負ったが、父子はなおも力戦した。
 欽宗が金軍の陣に向かおうとすると、張叔夜は馬を叩いて諌めた。欽宗は言った。
 「民の命のために朕自身が行かなくてはならない。」
 張叔夜は号泣しながら二度拝礼し、兵たちもみな声を上げて泣いた。欽宗は振り返ると字でこう呼びかけた。
 「ケイ仲はよく力を尽くした。」
 金は異姓の者を皇帝にしようと協議した。張叔夜は孫傅に言った。
 「今日の事、死あるのみ。」
 そして宗翰と宗望に「民の希望に従って欽宗の太子を立てるように」との書状を送った。二人は怒り、軍中に呼び出すと、張叔夜は書状と同様に太子を立てる事を求めたため、遂には二帝と共に北に連行されることとなった。
 張叔夜は道中で食事を摂らず、ただ時折湯だけを飲んだ。白溝に到着すると、馭者が「界河を過ぎた。」と言った。張叔夜は驚いて立ち上がると、天を仰いで大声で叫び、その後、再び言葉を発することは無かった。翌日卒去した。享年六十三。訃報が届くと、開府儀同三司を追贈され、忠文と諡された。



 祖父の張耆と、張耆の子の張希一・張利一の伝は『宋史』巻二百九十にあります
 張耆は真宗がまだ皇太子であったころから側近くで仕え、即位後取り立てられて対契丹戦に従事し、徐国公・侍中にまで至っています。
 また張希一・張利一は蔭位により官職に就いて対契丹戦に従事しています。

 このように代々将を輩出する家は、本場中国では「将門」と呼ばれています。
 将門について書籍になっているものでは
 https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=456975&bookType=ch
 とか
 https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=376831&bookType=ch
 など
 その他、論文が多数あります。

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