ナントカ堂 2020/07/05 08:15

張士誠

以下『全訳国初群雄事略』からの転載なのでお買い上げいただいた方はスルーしてください。



 現存する衛選簿の中の張士誠の旧臣。(少なくとも子孫が万暦年間あたりまで続いている家系)

宋奐:張士誠時代には万戸。明に帰順して小旗となり、最終的に錦衣衛百戸(『中国明朝档案総匯』四十九p.229)
馬志:張士誠時代には兵。明に帰順して小旗となり、最終的に総旗。子孫が錦衣衛指揮使(『中国明朝档案総匯』四十九p.455)
石家奴:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に武平衛左所千戸(『中国明朝档案総匯』五十二p.300)
王貴:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に青州左衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十五p.50)
朱徳:張士誠時代には千戸。明に帰順して兵となり臨トウ衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.108)
蔡文貴:張士誠時代には百戸。明に帰順して総旗。子孫が西安左衛後所副千戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.171)
丁賢:張士誠時代には千戸。明に帰順して小旗。最終的に総旗。子孫が平涼衛左所百戸(『中国明朝档案総匯』五十六p.222)
朱綱:張士誠時代には兵。明に帰順して小旗。最終的に成都右後衛後所千戸。(『中国明朝档案総匯』五十七p.258)
陳傑:張士誠時代には元帥副使。明に帰順して百戸。最終的に成都後衛百戸。子の陳志亮が成都左後衛後所千戸(『中国明朝档案総匯』五十七p.299)
賀誠:張士誠時代には同僉。明に帰順して百戸。最終的に雲南左衛右所副千戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十八p.398)
侯仲:張士誠時代には副使。明に帰順して小旗。最終的に臨安衛左所百戸。子孫が指揮僉事(『中国明朝档案総匯』五十九p.186)
黄得:張士誠時代には百戸。明に帰順して総旗。最終的に蘇州衛中所百戸。(『中国明朝档案総匯』五十九p.186)
姚勝:張士誠時代には守禦。明に帰順して副千戸。負傷により引退。子の姚文礼が皇陵衛右所千戸。(『中国明朝档案総匯』六十二p.218)
楊得山:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に懐遠衛左所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』六十二p.334)
湯全:張士誠時代には省都鎮撫。明に帰順して百戸、最終的に永定衛前所百戸。子孫が副千戸(『中国明朝档案総匯』六十四p.177)
呉雄:張士誠時代には元帥。明に帰順して百戸。最終的に長沙護衛百戸(『中国明朝档案総匯』六十七p.512)
夏旺:張士誠時代には総管。明に帰順して兵となり、最終的に徐州衛百戸。(『中国明朝档案総匯』六十八p.123)
楊春:張士誠時代には万戸。明に帰順して所鎮撫でそのまま。子孫が指揮同知(『中国明朝档案総匯』六十九p.109)
呉旺:張士誠時代には万戸。明に帰順して百戸でそのまま。子孫が宣府左衛右所署指揮僉事正千戸(『中国明朝档案総匯』六十九p.378)
張真:張士誠時代には兵。明に帰順して老齢のため引退。子の張儼が徳州衛中所副千戸(『中国明朝档案総匯』七十二p.190)
盛正:張士誠時代には万戸。明に帰順して百戸、最終的に鷹揚衛前所副千戸。子孫が指揮同知(『中国明朝档案総匯』七十二p.278)
馮幸:張士誠時代には兵。明に帰順して、最終的に山丹衛左所副千戸。(『中国明朝档案総匯』七十二p.372)


 『隆平紀事』の金姫の逸話。


 金姫李氏、名は金児、章丘の人である。李素の娘で占いに精通していた。張士誠が挙兵すると、李素の家族は全員捕らえられた。金児はまだ笄を付ける年にはなっておらず、太妃曹氏の侍女となった。高郵が包囲され、落城が間近になったとき、金児は占って「固守すれば敵は退却します。」と言った。その後、果たして包囲が解け、金児は「仙姑」と呼ばれるようになった。張士誠が長江を渡ろうとした際、金姫が占ったところ、吉と出て、果たして平江を平定した。平江に都を移そうと話し合われると、金姫だけが、江南に居を定めるのは不可で、居ればどうなるか分からないと言い、詩に托してそれとなく伝えたが、張士誠は聞き入れなかった。張士誠は外に出る際は金姫を召して同行させ、たびたび吉凶を尋ねた。金姫は「呉に入った後は、今まで以上に国家について深くお考えになる以外にありません。」と言った。金姫は、張士誠が日増しに驕り高ぶる様子を見て、張士誠に正論を述べて直させようとした。張士誠は金姫に対してはあえてどうこうすることもなかった。張士誠が呉王を称すると、金姫を王妃にしようと考えた。金姫は「事が成れば、妃としてください。」と言ったが、断りきれないと見ると、太妃に別れを告げた後、外に出て天を拝し、まもなく息絶えた。張士誠は金姫を福山港口に葬り、全ての珠玉を共に埋葬した。ある日、張士誠の妻の劉氏の夢の中で、金姫が「国家が大いに間違っており、これをどうにかするのは無理でしょう。」と言って泣いていたという。また他の日にも夢で張士誠の二子を撫でて「不測の事態が起こるので、陰ながら助けとなりましょう。」と言ったという。明軍が平江を攻めた。張士誠は何度も敗れて、金姫の言葉を思い出し、仙姫に加封して、祠で占った。今、常熟の西北に金姫の塚があり、転訛して「金鶏」と呼ばれている。

 平江の包囲が激しくなると、張士誠は密かに小児を街角に置いた。顧姓の者がこれを拾い上げ隠すと、金二錠が出てきて、その服には龍鳳文があった。そこで人々はこれが張士誠の子であると知った。この子は食事のたびに椅子と食卓が必要で、もし地面に座らせたなら、食事を与えても食べず、宮中のしきたりを身につけていた。成長すると顧姓を名乗り、宣徳年間(1426~1435)にはまだ健在であった。その人の子が顧都で、太僕の穆尚が知り合い、呉で塾の教師をしていた。また平江が攻め落とされる直前に、張士誠の妻の劉夫人は二子を金姫の母と二人の乳母に托して、民家に隠した。戦いがやや収まってから、金姫の母は密かに城から出て、金姫の墓に行った。すると墓はすでに乱兵に掘り返され、遺体はなくなっており、ただ服だけが残っていた。その傍らを掘ると珠玉がまだ残っていたので、これを全て集めて二子を連れて章丘に戻り、玉を市で金に換えた。二子は成長すると李姓を名乗った。洪武末に、下の子が郷薦により都に行くこととなった。そこで母はこのように言伝した。「都の某所に八十歳を越えた盲目の私の母がいる。密かに訪ねて、まだ生きていれば、私は問題なく暮らしていると伝えて欲しい。」下の子は言われたとおり訪ねてみた。盲目の母はその声を聞き、両手で顔を撫でてこう言った。「どこの子かは知らぬが、声はわが弟に似ている。国が亡んで幸いにも子を残すことができたようだが、どうして死を賭してまでここに来てしまったのだ。」そして押して外に出すと、戸を閉めて入ることを拒んだ。盲目の母とは張士誠の姉で、赦されて死を免れ、当時は孤児の世話をして評判であった。翌日、李は病と称して急ぎ帰郷し、子孫は代々章丘に籍を置いて続いているという。

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