ナントカ堂 2024/04/14 11:04

劉予の子と孫

 前々回に続き『図絵宝鑑』から。
『図絵宝鑑』巻四にある「海陵王は水墨画を描き、竹を多く描いた。」という記述も面白いのですが、今回は「紫微劉尊師は偽斉の劉予の孫で、山水人物を得意とした。」との記述に着目します。
 そこで劉尊師の記述から入ろうと思ったのですが、劉予の子の劉麟の記事も日本語では乏しいので、まずは『金史』巻七十七からその伝を訳しましょう。


 劉麟、字は元瑞、劉予の子である。宋の宣和年間に、父の蔭位で将仕郎となり、累進して承務郎となった。

 天会七年に劉予が済南ごと降ると、劉麟はこれより金軍に従軍して、水賊の王江を撃ち破り降した。
 劉予が東平の統治を任されると、劉麟は知済南府事となった。斉が建国されると、済南は興平軍となり、劉麟は節度使・開府儀同三司・梁国公となり、諸路兵馬大総管・判済南府事に充てられた。翌年、斉の尚書左丞相となった。
 その翌年、劉予が開封に遷都すると、判済南府事は解任されたが、これまで通りに開府し、参謀を置くことを許された。
 劉予が劉麟を皇太子に立てるよう願うと、金の朝廷はこれを許さず、言った。
 「もし宋を討伐して、功を立てれば皇太子に立てよう。」
 ここに劉麟は連年兵を率いて南征したが、全て戦果無く帰還した。

 金の朝廷は斉の廃止を決め、劉予に南征の期日を伝えて、先に兵を出し淮河沿岸に布陣させるよう命じた。撻懶は軍の力で劉予を廃しようと、刁馬河に軍を止めた。
 劉麟が数百騎を率いて出迎えると、撻懶は劉麟に、指揮する騎兵を南岸に留め一人で渡河するよう命じた。こうして劉麟を捕えると、劉予を廃し、劉麟を臨潢に移した。
 しばらくして劉麟は北京路都転運使の地位を与えられ、中京路と燕京路の都転運使、参知政事や尚書左丞を歴任して、興平軍節度使・上京路転運使・開府儀同三司となり、韓国公に封ぜられて、六十四歳で薨去した。
 正隆年間に二品以上の官封を降格する命が下り、特進・息国公に改贈された。


 ここで改めて劉尊師について見ていきましょう。
 『図絵宝鑑』の記述は上記にあるのみなのですが、『元好問集』巻四十にはこのように記されています。


【跋紫微劉尊師山水】
 山水の画家では李成と范寬の後は、郭熙が絵の名人である。郭熙の筆は老いても衰えず、山谷詩に「郭熙の目は老いてもなお明るい」との句があり、これは郭熙が八十歳を越えた時に記されている。
 近年では太原の張公佐の「山間風雨」は神業であり、この人は八十六歳で亡くなった。その暮らしの跡は河東の各地にある。張公佐の後には紫微劉尊師がいる。
 尊師は山水を描くのを好み、老齢になってから郭熙の「平遠」を四幅手に入れると、これを愛しそこから技法を学んで、ここから画力が大いに向上した。今は九十七歳である。
 弟子の邵抱質が「春雲出谷」「湖天清昼」「千崖秋気」「雪満群山」を描いたが、特に師の画風の影響が見られる。邵抱質が私に題記を求めたので、この機にこの文を記す。
 この翁は定襄の人。童子の頃に入道し、道行は高潔で玄学の深淵に達した。人として正道を歩んだ人物と言えよう。ただ後世に、この人の絵だけを見て郭熙・張公佐と優劣を論じ、その行いが知られなくなるのではないかと心配である。玄学とは秘されたものであるから、今ここに明記するものである。
  歳癸丑冬十月旦、郡人元某(元好問)記す。


 劉予の評判が悪かったので、元好問は記さなかったのでしょう。

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