ナントカ堂 2016/09/22 00:49

石守信と王審琦

魏仁浦の項で石守信と王審琦が出てきたので今回はその家について

石守信の子の石保興は父と同様の名将で対西夏戦で活躍しました。しかしその弟の石保吉は武勲を挙げてはいるものの傲慢な性格でたびたび法を無視しては、皇帝から大目に見てもらっていたことが『宋史』巻二百五十の本伝に記されているほか、『宋史』巻四百六十三の「劉美伝」にも、城を無許可で改築したことから朝廷から疑いの目を向けられていたことが記され、石保吉については目を瞑っていた朝廷も石保吉の子の石貽孫が法に触れるに至っては免官としました。また石保興の子の石元孫は西夏に惨敗し、以前から石氏のやり方に不満を持っていた朝臣たちから弾劾を受けて配流されました。
法で治めていこうとしている宋朝にとって、名門の出でさらに軍功のあることを恃みとして秩序を乱す石氏は許しがたい存在であったのでしょう。これ以後石氏は歴史の表舞台から消えていくこととなります。

これに対して王審琦の家系は時代の風潮に乗って武門の家から文官への転換を図りました。孫の王克臣が進士となると仁宗は、皇帝の外孫が進士になったといって大いに喜び、さらに文官として有能であったので、工部侍郎になると、神宗は尚書省に行くたびに、庁舎の前で車を止め、王克臣が政務に励んでいることを褒め、その寵遇には誰も及ばなかったと記されています。さらに王審琦の曾孫の王師約が進士となると、進士を娘婿としたいと考えていた英宗により皇帝の身内となって、公主との間に子を成し、王氏は栄えていくこととなります。

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