ナントカ堂 2020/03/19 20:10

「高麗史列伝(前期分)」出ました。

新刊出ました。
設定をちゃんとしなかったため自動反映されないので自分で告知を出します
それはそれとして製作中に思ったことを少々。

今回一応『高麗史史籍概要』(甘粛人民出版社)というものが手元にあったのですがいまいち生かせませんでした。
中で紹介されている『壮節公申先生遺迹』と『壮節公申先生実紀』(体験版でも見ることができる列伝五にある申崇謙に関する書です)が気になったのですが、日本には無いもののようで見られず仕舞い。
でも『高麗史史籍概要』の紹介文をを見ると、十五歳で儒科状元とか書いてあって、
いや、新羅末にはまだ科挙やってないし、中国は五代十国時代の戦乱だし、どうも子孫が事績を盛っているみたいです。
(日本に無くて見られなかったと言えば、李朝の宦官の族譜である『養世系譜』というのも内容が凡そしか分からなくて残念です)
『高麗史』ではチョイ記事扱いの申崇謙ですが、子孫が李朝の有力者なため上記の書が作られ、また国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる『朝鮮金石総覧』下の83コマに「申崇謙忠烈碑」があります。

高麗王朝500年の歴史で、初期の家系には断絶したものも多いのですが、申崇謙の家のように盛り返したものも見られます。
例えば列伝十の鄭沆の家系。
列伝十では鄭沆の子の鄭叙が配流されたままで終わっています。しかし『朝鮮金石総覧』下59コマの「鄭蘭宗神道碑」や63コマの「鄭光弼神道碑」を見るに李朝において有力者となっています。
また列伝七の河拱辰は、『東文選』巻百二十一に墓誌が載る河允リン(さんずいに隣のつくり)と巻百二十九の河崙が先祖であると記してあり、特に河崙は李朝建国の功臣として有名な人物です。

仁宗二十四年正月辛卯条に「王の病が重くなった。占うと李資謙の祟りであるという。そこで内侍の韓綽を遣わして李資謙の妻子を仁州に移した。」とありますが怨霊のようなものでしょうか。
でも李資謙はあまりかわいそうじゃなかったから大して発展しなかったようです。(伴善男みたいに)

列伝十一で仁宗が金正純の軍功を称えて
「その昔、唐の近臣の梁守謙は偏将となって裴度の幕下にあり、淮・蔡平定を助けた。今、汝の働きを見るにかの梁守謙と比べても劣らない。」
と言っていますが、梁守謙は宦官なのですが、その点は良いんでしょうか。
或いはこのころの人は両唐書を読まないで『資治通鑑』を拾い読みしているか何かの文集を読んでいるか、なのでしょうか。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索