ナントカ堂 2016/10/05 20:26

王継忠

『玉壺清話』にこうあります。

真宗が開封尹であったころ、街にいる鉄盤で占う盲人を呼んで、張耆、夏守贇、楊崇勲などの側近たちに声を出させて、盲人にどのような風貌の者かを言い当てさせて楽しんだ。当たる者もいれば外れる者もいたが、王継忠に当たったときだけ盲人は大いに驚いてこう言った。「この人は不思議な方だ。半分は漢の禄を、半分は胡の禄を食むことになる。」と言った。真宗は笑って送り返した。王継忠はその後、観察使・高陽総管となった。咸平六年、契丹が都に迫ったので、王継忠はは契丹と戦った。夜になるまで戦って、敵の騎兵に数十重にも取り囲まれ、戦いながら移動して、近くの西山に急ぎ逃れようとしたが、白城まで来たところで敵の手に落ちた。真宗はこれを聞くと、みな戦死してしまったのであろうと大いに嘆き哀しんだ。景徳の初め、契丹から和睦を申し入れてきた。その文書の起草には王継忠も加わり、和睦に向けて大いに尽力していた。朝廷はこのときになって王継忠が生きていることを知った。後に毎年使者が遣わされるたびに、真宗は手づから薬を包みに入れて王継忠に送った。王継忠はこれを受け取ると、漢の徽章を身につけてはるか南方の朝廷を望み、「臣はいまだ死んでおりません」と哭して拝礼し、契丹人の目も憚らず、伏せたまま使者に真宗の近況を尋ねた。王継忠はその人徳と威儀により、契丹の朝廷から妻を迎え、呉王に封ぜられて、耶律に改姓した。契丹の地で没すると、人々は、蕃の手に落ちた王氏と呼んだ。

王継忠の伝は『宋史』巻二百七十八と『遼史』巻八十一にあり、宋には懐節・懐敏・懐德・懐政、遼には懐玉という子がいたようですが、『宋史』と『遼史』は互いにばらばらに編纂したために、『宋史』には「いつ死んだかは判らない」とあり、『遼史』には「太平三年に致仕して卒去した。」とあるのを初めとして齟齬が見られます。
後代の金と宋の関係に比べ遼と宋は感情的にはさほど憎しみあってなかったようで、王継忠のように、契丹にあって両国の間を取り持とうという人物が好感を持たれていたようです。
『宋史』巻二百七十八には「王継忠伝」の続きにこう記されています。

即位前から真宗に仕えていて取り立てられた者は王継忠の他には、王守俊が済州刺史、蔚昭敏が殿前都指揮使、保静軍節度、テキ明がメイ州団練使、王遵度が磁州団練使、楊保用が西上閣門使・康州刺史、鄭懷德が御前忠佐馬歩軍都軍頭・永州団練使、張承易が禮賓使、呉延昭が供備庫使、白文肇が引進使・昭州団練使、彭睿が侍衛馬軍副都指揮使・武昌軍節度、キン忠が侍衛馬軍都虞候・端州防禦使、カク栄が安国軍節度観察留後、陳玉が冀州刺史、崔美が済州団練使、高漢美が鄭州団練使、楊謙が禦前忠佐馬歩軍副都軍頭・河州刺史、となった。

前項の王継昇でも太宗に仕えた人物が登用されたと記しましたが、真宗の代でもこの他に上記の張耆・夏守贇・楊崇勲など多くの側近が重臣として取り立てられました。

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