ナントカ堂 2016/10/05 21:21

山西巨室

「山西巨室」と呼ばれた山西の大勢力がチュウ(のぎへんに中)氏と姚氏です。

宋も仁宗の時代になると、建国当初から続く武将の家も次第に凡庸な者を輩出するか文官に転換するかして使い物にならなくなっていきました。さらに西夏の勃興により西北が脅かされるようになると、折氏だけでは対抗しきれなくなります。そこで仁宗は信任するチュウ世衡を内々に派遣してこの地に根を張らせることにしました。『宋史』巻三百三十五は全てこのチュウ世衡と子・孫の記述に当てられており、その重要性が見て取れます。
チュウ氏が世に知られるようになったのはチュウ放からで、吏部令史の子のチュウ放はたびたび推挙を受けながらも、世捨て人のように暮らして固辞し、一時給事中となったもののすぐに辞めて隠遁生活を送っていました。チュウ世衡はチュウ放の兄の子で、蔭位により出仕した人物で、地方官となると権力におもねらずに適切に処罰を行ったため一時期左遷されましたが、その気概から朝廷でも支持する者が多く復帰して地方官を歴任しました。西北の守りが手薄となっていたので自ら志願して赴き、廃墟を建て直して青澗城を築き、屯田と交易を行って自前で兵と食糧・金銭を調達してその地に勢力を打ち立てました。族長の奴訛と面会の約束をした日に大雪が降り、誰もが行くのは無理だと引き止める中、世衡は信義を守るために出発し、絶対に来ないであろうと思い寝ていた奴訛はこれに感じ入って服属するようになりました。知略と武勇に優れるほかに、病になった兵がいると自分の子を遣わして看病させたので兵たちも心服していましたが、范仲淹の命により病を押して細腰城を築き、完成と共に没しました。
その子の諤・誼・樸も青澗城にあってよく西夏の進攻を食い止めました。
孫の師道が老齢となったころ、金が南下してきたため兵権を委ねられ、金軍を撃退しましたが、これに油断した朝廷は、不要となったとばかりに師道から兵権を取り上げて遠方の守備に単身で送り出してしまいました。再び金軍が攻め寄せ、官軍が撃破されると、朝廷は慌てて師道を呼び戻しますが、老齢のため途中で病となり没してしまいました。欽宗は開封陥落後に「チュウ師道の言うことを聞かなかったからこうなったのだ。」と嘆きました。
師中は師道の弟でこちらも兵を率いて金軍相手に善戦しましたが頼みとしていた兵糧が届かずに飢えていたところに金軍の総攻撃を受けて力尽きて戦死、ここにチュウ氏は宋に殉じて滅んでしまいました。

もう一方の姚氏について『宋史』巻三百四十九の「姚ジ(凹の下に儿)伝」に姚ジとその弟の麟、子の雄、孫の古の事績が記されています。
姚ジは父の姚宝が定川の戦いで戦死すると右班殿直・環慶巡検に任じられ、初陣で西夏の主将を矢で討ち取って壊滅させたのを初め目覚しい軍功を立てて通州団練使・フ延総管に昇進し、弟の麟、子の雄、孫の古もよく西北の地を守ったので朝廷に認められ、この地に勢力を張りました。
ここにチュウ氏と姚氏は山西巨室と呼ばれ並び立つようになりましたが、両家は対抗意識が強く、金が南下した際、
欽宗が防衛軍の将としてチュウ氏を上席に置くと、姚氏はこれに反感を持って、何かと作戦に齟齬をきたすようになり、これが宋軍壊滅の一因となりました。
チュウ氏は奮闘して討ち死にしましたが、その一方で姚古は兵を失って自分だけ逃げ、これが朝廷の怒りを買い広州に配流、ここに姚氏は勢力を失って没落していきました。
『宋史』本伝の記述はここで終わっていますが、『渭南文集』巻二十三に「姚平仲小伝」として、姚古の従子で養子となっていた姚平仲について記されており、靖康元年(1126年)に金に敗退した姚平仲は山中に逃亡し、淳熙年間(1174~1189)に八十歳になってから人前に姿を現したと記されています。

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