ナントカ堂 2016/10/05 21:24

神宗時代登用者

仁宗の時代にチュウ氏や狄青などを登用して、弛緩した軍の立て直しを図った朝廷では、神宗の代になってからも新たに武将を登用しました。その中で前項の姚氏のほか、苗授・劉仲武・郭成の一族が目覚しい活躍をしました。

まず初めに苗氏について見て行きましょう。
『宋史』巻三百五十の苗授伝には、苗授の父の苗京が慶暦年間に西夏の侵攻から麟
州を守って死んだとあり、それ以前は不明ですが、孫の苗傅について、『宋史』「苗傅伝」では上党の人とあり、同じく上党の人で『旧唐書』巻百十三や『新唐書』巻百四十に伝のある、唐の玄宗の時代の苗晋卿の一族が宋になってからも地元に勢力を有していて、これを郷土防衛として取り立てたものではないでしょうか。
苗授とその子の苗履は数々の軍功を挙げましたが、『宋史』本伝には、苗履が天武都指揮使になった後について「是後史失其傳」とあり後半生については記録が残されていません。他にも様々な事跡の記録が靖康の変前後の混乱で失われたのでしょう。
苗履の子の苗傅については『宋史』巻二百三十四の「叛臣伝」に収められています。苗傅自身は元豊年間に殿前都指揮使となっており北宋の朝廷では重きを置いていましたが、宋朝南遷後は、地方の司令官の私兵に過ぎなかった王淵が高宗に重用され、自身はその下風に立たされました。さらに王淵が宦官らと組んでは略奪など好き放題に振舞うに至ってこれに反感を持ち、よくある謀反人が名目上で掲げるのとは異なり、本心から君側の奸を除こうとして王淵を討ち、さらにその一党を討とうとしましたが、これが高宗との決定的な対立となり、叛臣として滅ぼされてしまいました。

劉仲武は同じく『宋史』巻三百五十に伝がある人物で、西夏を防ぐのに功があり、保静軍承宣使や瀘川軍節度使を歴任し、没後に少保を追贈されるほど評価されました。その子の劉錡は『宋史』巻三百六十六に伝があり、むしろこの劉錡の方が岳飛と並ぶ抗金の名将として有名で、長江沿いに駐留して金の攻撃を良く跳ね返し、没後は呉王を追贈されて、現在でも劉王廟に祀られています。

郭成も同じく『宋史』巻三百五十に伝があってよく西夏を撃退しました。子の郭浩は「郭成伝」にも紹興年間(1131~1162)に西辺の大将となったとあり、『宋史』巻三百六十七の「郭浩伝」にその活躍が記されています。


苗傅は、混乱した朝廷が対応を誤らなければ、都に在って朝廷の守護者となりえた人物で、劉錡と郭浩は金の侵攻から江南の地を守りきった名将。神宗の時代に撒いた芽が良く実ったと言えましょう

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