ナントカ堂 2016/10/05 21:27

信王と広東摧鋒軍

靖康元年(1126年)に都が落ちた後も、天会八年(1130)に張中孚が平和裏に降伏するまでは陝西の地は宋の勢力範囲であり、他にも華北には一時的ではありますが宋の残存勢力がありました。その盟主が徽宗の十八男で『宋史』巻二百四十六に伝のある信王・榛です。信王は他の皇族と共に北に連行される途中、慶源で脱出に成功、真定に潜伏するうちに、五馬山砦に籠もる馬拡と趙邦傑がこれを主として推戴します。信王は各地に散らばる宋の義兵を糾合すれば勝機がつかめると考え、諸砦との連携を馬拡に任せました。しかし信王側近らが馬拡に不信感を持って対立、さらに現状では勝利を望めないと判断したため馬拡は、大名府で兵を集めたままそこに留まり動かなくなりました。さらに江南にいる高宗の朝廷が信王の動きを警戒するなか、金はこれらが連携して行動する前に先手を打とうと、各地の砦を攻めて連携を絶ち、五馬山砦を攻め落としました。信王は行方知れずとなり、ここに中原の地での宋の復興の芽は潰えました。
このとき信王の配下に韓京という人物がいました。欽宗の詔書に応じて旗揚げし、信王軍に合流した人で、慶源に駐屯していましたが、慶源が金軍に攻め落とされると、仲間と共に包囲を突破、その後、黄河を渡って落ち延びながら次第に仲間を集め、これが三千人の軍勢となりました。南宋の朝廷はこれに官職を与えて、初めに岳飛の配下として各地の反乱鎮圧に向かわせ、後に当時辺境の地で政情治まらない広東の地の駐留軍として送り出します。ここに「広東摧鋒軍」が成立しました。『南宋地方武力』にはこの広東摧鋒軍の他にも同様の地方勢力である福建左翼軍や湖南飛虎軍などについて記されていますので、詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。広東摧鋒軍は広東地域の反乱鎮圧を主な任務として南宋一代の間続いていきました。元朝が臨安を下して南宋の亡命朝廷ができると、周囲が次々と元に降る中、広東摧鋒軍は最後まで亡命朝廷の側に立って戦い、最後の拠点となった潮州で全滅するまで戦って消滅しました。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索