ナントカ堂 2021/08/22 10:21

二楊

 楊家将二代目の楊延昭についてはwikipediaに項がありますが、これと並んで二楊と称された楊嗣については項が無いので、『宋史』巻二百六十より訳します。


 楊嗣は建隆の初め(960)に楊信の推薦で殿直となり、三度昇進して崇儀副使・火山軍監軍となった。
 雍熙四年(987)に火山軍の知軍事となった。その後、交代して都に戻ろうとすると、吏民が惜しんで引き留めたため再任された。まもなく高陽関戦櫂都監に昇進した。
 淳化二年(991)に保州知州に改められると、私的に人と会わなくなった。転運使がその業績を報告して威虜軍知軍に昇進し、その後、崇儀使に改められた。
 曹思進と共に静戎軍・保州・長城・蒲城縁辺都巡検使となり、如京使に改められ、再び保州知州となり、戦功を挙げた。

 真宗が即位すると洛苑使を加えられ、咸平の初め(998)に獎州刺史を領した。
 三年、廉良で敵と戦い、二千の首級を挙げ、大量の軍馬と輜重を獲得し、その功で真拝の保州刺史となった。
 都に召されて、保州団練使の地位に就けられた。
 このころ楊延昭が保州刺史となった。楊嗣は言った。
 「以前、私は楊延昭とは同格でした。それが私だけ急に上の官職に就きました。これは良くありません。元の官職に戻してください。」
 真宗はこの意見を嘉し、楊延昭を昇進させた。
 楊嗣は楊延昭と長い間北辺に駐留し、共に戦上手として評判を取り、当時「二楊」と呼ばれた。
 楊嗣は武人として郡を治め、細かい事に気を配らず、また国境警備も兼任していたため郡に居る日も少なかったため、城壁が崩れても修理しなかった。真宗は供備庫副使の趙彬と交代させ、深州団練都巡検使兼保州鈐轄とした。

 五年、保州が敵に攻め込まれ、楊嗣と楊延昭で防衛した。隊列が整わないところを急襲され、多くの兵馬を失った。交替して帰還すると、特例として罪を赦された。
 翌年、秋期の防衛対策会議に加わり、北面の利害を項目を立てて説明した。国境の情勢を熟知していたため、鎮・定・高陽関三路後陣鈐轄に任命され、その後、定州副都部署に異動となった。家族を都に留め、自身は官庁に仮住まいした。

 景徳の初め(1004)、鎮州路副都部署に改められた。真宗は、楊嗣が老齢で軍政を取り仕切っているため、気力が衰えているのではないかと心配し、まもなく交代させた。その後、趙州・貝州・深州の部署を歴任した。
 大中祥符五年(1012)、に再び天雄軍副都部署として地方に赴任し、六年に左龍武大将軍を以って致仕して、翌年卒去した。享年八十一。その子の楊承憲を侍禁に取り立てた。

 楊賛は多少は書を知っていたが、特に人より秀でたところは無かった。兄の縁で禁軍の将となり、実績を積んで地方官の地位にまで至った。

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