ナントカ堂 2021/08/10 22:21

曹利用続き

 続きというか、間を端折って伝の終わりのあたりです。


 章献太后が垂簾聴政を行うと、宦官と外戚が跋扈しだした。曹利用は勲功ある古くからの臣であると自負していたため、気に掛けなかった。太后が実家の一族に恩典を与えようとすると、曹利用は強く反対した。側近からも多くの怨みを買い、太后からも敬遠されていたが、名では呼ばれず「侍中」と呼ばれる待遇を受けていた。
 曹利用は簾の前で奏上するとき、時々爪で革帯を叩いていた。側近がそれを指さし太后に言った。
 「曹利用は先帝の時にはあのような事をしていたでしょうか。」
 太后は頷いた。
 太后が一族に恩典を与えることに、曹利用はしばしば反対していた。しかし止むを得ず従うこともあった。人々は事情を察していたが、ある者が太后を欺いて言った。
 「太后が一族に恩典を与えようとすると曹利用は反対しますが、曹利用の家の老婆が密かに臣の希望が通るよう約束してくれたため、臣の希望は通るでしょう。」
 そこで試してみると果たして曹利用は反対しなかった。このときから太后は、曹利用が私情を挟んでいると疑い、大いに怒り怨んだ。

 内侍の羅崇勲が罪を犯した。太后は曹利用に、羅崇勲を召して訓戒するよう命じた。曹利用は羅崇勲の冠を取り上げて、長時間責め詰った。羅崇勲はこれを怨んだ。
 曹利用の従子の曹汭は趙州兵馬監押であったが、州民の趙徳崇が都まで来て曹汭の不法を訴えた。羅崇勲が現地に遣わされて究明することとなり、徹底追及された。曹汭は飲酒して黄衣(皇帝の服)を着用し、人々に万歳を唱えさせたため、杖死となった。
 曹汭の事件が発覚した当初、曹利用は即刻枢密使を罷免され、兼侍中・鄧州通判に降格となった。曹汭が誅されると、左千牛衛将軍・隨州知州に左遷された。更に景霊宮の金銭を私的に貸したことが罪に問われ、崇信軍節度副使に左遷されて房州に配流となり、内侍の楊懐敏が護送した。その子らは二階級降格となり、賜った邸宅は取り上げられ、家財も没収となり、親族十数人も免官となった。
 宦官の多くが曹利用を憎んでいた。襄陽駅まで行くと、楊懐敏は前に進むのを拒み、言葉で脅迫してきた。曹利用はもともと剛毅な性格であったため、遂には首を吊って死んだ。急死したと報告された。

 その後、家族は鄧州に住むことを願い出た。仁宗は同情して許可し、曹利用の子で内殿崇班の曹淵をその州の監税に任じた。
 明道二年(1033)、追復して節度使兼侍中とし、後に太傅を追贈して、子たちを元の官職に戻した。襄悼との諡を賜り、学士の趙概に神道碑を作るよう命じ、仁宗自身が「旌功之碑」の篆額を書き、没収した財産を返還するよう命じた。

 曹利用は生来強情で融通が利かず、その決断力で帝に気に入られた。ただ親族や旧知の者を取り立てたため、災いに遭ったのである。しかし朝廷に在っては忠義を尽くし、始終屈することなく、罪無くして死んだ。天下の人々はこれを冤罪であると言った。

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