ナントカ堂 2021/05/18 20:13

童貫の最も早い伝記は

 童貫の最も早い伝記は『宣和画譜』巻十二「山水三」。宣和二年(1120)成立の書なので、生前にできたものです。以下の通り。


 内臣の童貫、字は道輔、京師の人である。慎み深い性格で寡黙、部下には寛大で度量が広く、喜怒を表に表さなかった。兵を上手く統制し規律を以って率いた。
 父の童湜は優雅で絵画を所蔵するのを好み、当時の名手の易元吉・郭熙・崔白・崔慤らに生活費を与えて、代わりに絵を供されていた。
 童貫は父の傍らに在って優れた作品を見ていたため、その妙技を会得した。次第に胸は高鳴っていったが、そのことは秘密にしていた。
 時折、傍らに筆と墨があると、戯れに山林泉石を描き、気の向くままに筆を走らせ、気持ちが落ち着くと止めていた。人がそれを持って行こうとすると、取り返して破っていた。興が乗って部下から揮毫を求められると、紙の裏や断片に書き、直ぐに仕舞われて再び人々の目に触れることは無かったため、全て珍玩となされた。このため希少価値があった。書き方は瀟洒で簡易、自由に描いて人に気に入られようとはしなかった。
 いにしえより軍を指揮する者は絵心があった。諸葛孔明の八陣図は配置がよく理解でき、馬援が米で山川を形作って作戦を説明したのも、絵心あってのことである。童貫もまた然り。
 童貫は湟・鄯で功を挙げ、西の辺境で城を落とし蛮族を討った。立派な風貌で、厳しくはなかったが威厳があった。賞罰を行うときは事前に素振りを見せなかったため、付け入る隙が無かった。童貫は寛大であったため、人々は率先して帰服した。「著脚赦書」と呼ばれるようになったのは、至る所で恩恵を与えていたからである。
 その功績は正史に詳しいので、ここに概略を記す。今、童貫は太傅・山南東道節度使を歴任して、枢密院事・陜西河東等路宣撫使を領し、涇国公に封ぜられた。現在、童貫の作で御府に所蔵されているものは四点ある。


 西上勝氏の「『宣和畫譜』小考」には

 『畫譜』の編集方針が、一方では歪みを生んでいることも否定できない。『畫譜』には、後の史家からは北宋末の「六賊」の一に挙げられることになる童貫をはじめとして、多くの宦官が内臣画家の名の下に挙名され過剰な賛辞からなる論評が与えられている。

 と記されていますが、童貫を「六賊」、宦官を佞臣とするのもひとつの偏見であり、多少褒め過ぎの感は否めませんが、徽宗だって芸術面だけなら一流の人物なのだから、良い作品でなければ御府に所蔵しないはずです。
 少なくとも、父は童湜で芸術家を支援していて、童貫は小さい頃から芸術に触れていた、というあたりは動かせない事実でしょう。

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