ナントカ堂 2021/05/07 20:57

趙夫人慕容氏誌銘

 『建康集』巻八の『趙夫人慕容氏誌銘』が面白かったので以下に訳します。


(前略)
 夫人の姓は慕容氏。河南の人で河南郡王の延釗の曽孫である。祖父は某、父は彦羲、母は王氏。
 夫人は幼いころから荘重ながらも慎ましやかであった。叔父で尚書の彦逢が、朝議大夫の趙望之との婚儀を纏めた。
 当時は平和が続いた時代であったため軍事を語ることは憚られていたが、望之は「李衛公六花陣法」を献じた。これにより試中書尚書となるところであったが、望之は「この陣法が妻の考えに拠るものである」と言った。姑に気に入られ閨房は粛然とした。
 夫人が三十歳のときに望之は逝去し、苦難を乗り越えて残された子を育て、名儒を選んで学ばせた。このため二人の子は共に科挙に合格し、娘も賢士に嫁いだ。
 次男の泉は初めに隨州司儀曹事となり、南道総管の張叔夜(「張耆」の項参照)に招聘されて幕僚となった。泉が勤王(宋朝のために金と戦うこと)に積極的に協力し、張叔夜と共に進軍していると、皇帝より急ぎ都に来るよう命令が届いたため、張叔夜は兵を率いて都に向かった。このとき夫人の長男(墓誌では実名を避けたため不詳)は穰県丞で民兵を率いており、弟と合流し共に夫人を奉じて進軍することとなった。その道中で賊徒に何重にも包囲され、全員が色を失うと、夫人は大声で呼びかけ先頭に立って言った。
 「都は陥落し、二帝は北に連れ去られた。まさに忠臣義士が功名を取る時である。まして汝らはみな国家の赤子であり、現状に苦しんでいるはずだ。わが長男は既に勤王の兵を率い、次男はここにいる。我が子らよ、災い転じて福と為せ。」
 賊徒らは拝礼して「我らは母が来たというのでお迎えに来ただけで、他意はありません」と言った。
 夫人は泉に命じて、この者たちと共に勤王の誓いを立てさせ指揮させた。
 南下して棗陽に到着すると「州は兵が不足して住民は不安を感じている」と耳にした。そこで泉が兵を指揮して棗陽を治めることになった。泉は朝夕訓練してその評判は高まり、敵は敢えて領内に攻め込まず、他の地域が攻め落とされると、泉は兵を率いて取り戻した。このことは朝廷にも伝わったが当時は交通が分断されていた。
 翌年になって新知州の楊卓が来たので交代した。困難に在って夫人の力により遂には一城の住民の命は助かった。
 夫人は膽略があり偉丈夫のようであったが晩年は健康に優れず、二人の子が交替で家に迎えた。婿たちも名声のある士で、当時の誉れであった。
 紹興十二年(1142)冬十二月十三日、軽い病となり亡くなった。享年六十五。二人の子が朝廷に願い出て、太宜人に封ぜられた。
(後略)


 私のような儒教の「崇高な精神」とやらを持ち合わせていない俗物だと、列女伝を立てるならこういう人を入れてほしい。どうも『宋史』の列女伝だと、操を守って死んだ人ばかりで面白くなくて。
 ただ一行ほどですが「彭列女」だけは面白いから好きですよ。以下その訳。


 彭列女は洪州の分寧の農家に生まれた。父の泰に従って山に入り薪を切っていると、父が虎に遭遇して逃げられなかった。女は刀を抜いて虎を斬ると、父を取り返して家に帰った。このことが報告されると、帝は粟帛を賜り、州県に季節ごとに挨拶に行くよう命じた。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索