ナントカ堂 2021/04/22 06:24

曹彬の若い頃

 前回最後に「実際、『宋史』も曹彬の経歴から見たらこの話はおかしいと思ったのか採り入れていませんし」と記しましたが、『宋史』の本伝を見ると、よく語られているエピソードが場違いな感じがします。
(『宋名臣言行録』は例のエピソードの後に、いきなり宋代に飛んで後蜀攻略の話になるので分からないのでしょうが)
 以下『宋史』巻二百五十八の本伝より、若い頃の部分です。


 大人になると温厚な性格で、後漢の乾祐年間(948~950)に成徳軍の牙将となった。節度使の武行徳はその重々しく且つ慎ましい様子を見て、曹彬を指さしながら側近に「これは遠い将来大器となる。並の人物ではない。」と言った。

 後周の太祖の貴妃の張氏は、曹彬の従母であった。後周の太祖が即位すると、曹彬は都に召されて世宗の帳下に属した。世宗が澶淵に鎮守するのに従い、供奉官に就けられ、河中都監に抜擢された。
 蒲州節度使の王仁鎬は、曹彬が皇帝の外戚であったため、通常よりも礼遇した。曹彬は礼節を守って慎ましく振舞い、公府で宴会があっても、終始姿勢を正していた。王仁鎬は従事に言った。
 「私は深夜になっても態度を崩さないことが自慢であったが、監軍が酒宴でも厳格な態度のままなのを見て、ようやく自分がただの兵卒程度であったのが分かった。」

 顕徳三年(956)に潼関監軍に改められ、西上閣門使に昇進した。
 五年に呉越に使者として遣わされ、任務を終えて帰国しようとすると、呉越の官僚が私的に挨拶に来て贈り物をしたが、一切受け取らなかった。呉越の人は軽舟で追いかけて贈ろうとし、やり取りを繰り返すこと四回、「私は終始断った。これで名分は立っただろう。」と言って、受け取った。そして帰ると全て朝廷に進上した。世宗が強いてこれを曹彬に返したため、曹彬は仕方なく受け取り、全て親族や旧友に分け与え、自分には一銭も残さなかった。

 晋州兵馬都監として赴任した。ある日、主将と賓客が野外で座を囲んでいると、そこへ近くの守将が遣わした使者が馬を走らせやって来た。使者は曹彬の顔を知らなかったので、近くの人に「どなたが曹監軍でしょうか。」と尋ねた。その人は曹彬を指さして示した。使者は嘘だと思い笑って言った。
 「皇帝の外戚で近臣の方が荒く厚い袍を着てあぐらで座っている訳が無いでしょう。」
 よくよく見てようやく信じた。
 その後、曹彬は引進使に昇進した。

 宋の太祖が禁軍を管掌しても、当初、曹彬は中立を保って味方しなかった。公務でもなければ家に行かず、皆が入り混じった宴席でも近寄らなかった。こうして器量のある人物として重んじられた。
 建隆二年(961、太祖即位後)、曹彬を平陽から召して都に戻らせると、太祖は言った。
 「私は以前に常々汝と親しくなりたいと思っていたのに、汝は何故私を遠ざけたのか。」
 曹彬は頓首してこう謝した。
 「臣は後周の皇帝の近親で、宮中の官職に在って職務に努めていました。過誤を○すことを恐れて徒に結びつきを持たなかったのです。」

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