呼延灼か呼延通か
いや~何か、現実っていうのはつまらないな~とか、講談とかだとすっきりして良いな~とか。
初めに申し上げておきますが「立派な韓世忠」が好きな方は今回は読まないでください。
『水滸伝』に呼延灼という人物が出てくるのは有名な話ですが、これはあくまでも架空の人物。
ただし南宋初期に呼延通という人物がいて、この人は韓世忠の部下で、『三朝北盟会編』巻百六十九に
「我は呼延通なり。わが先祖の呼延太保は太祖の時代に在って契丹を殺し大功を立て、かつて『契丹と共に共には生きず』と誓いを立てた。まして汝ら金国は我が国をを侵した。我はどうして汝らと生を共に出来ようか」
と言ってから金軍の将と一騎打ちをしたとあります。
この時、双方馬から落ちて取っ組み合いとなり、苦戦の末に呼延通が勝って、これを機に宋軍が勢いづいて勝利しました。
おそらく呼延灼はこの人をヒントに造形したのでしょう。
では、なぜストレートに呼延通を出さないのかと言うと、その終わり方が後味が悪いからでしょう。
『建炎以来繋年要録』巻百三十八にはこう記されています。
紹興十年(1140)十二月、永州防禦使の呼延通が自殺した。
京東宣撫処置使の韓世忠は楚州に在って老年になっても色を好んだ。諸将を招いて酒を飲むたびにその妻女に杯を捧げさせ、宴会が終わってからもそのまま留めて酒を飲み、泥酔してから帰らせていた。呼延通はこの事を憎んでいた。
臨安に韓婉という妓女がいて美しく賢かった。呼延通は力を尽くして韓婉を家に引き取った。評判を聞いた韓世忠は韓婉をわがものにしたいと思った。呼延通は拒み切れず、遂には韓世忠に献じた。
ある日、韓世忠は水軍統置の郭宗義と共に呼延通の家に集まった。韓世忠はしばらく横になっていると呼延通は佩刀を抜いた。郭宗義はその手を押さえて「いけない」と言った。韓世忠は目を覚ますと大いに驚き、馬に飛び乗り逃げ帰った。
呼延通は淮陰統制官の崔徳明とは不仲であったが、韓世忠は即刻、呼延通を呼び出すと兵卒に降格とし崔徳明の軍に配属した。
韓世忠の誕生日、諸将が集まり祝いを述べた。呼延通は淮陰より馳せ参じたが、到着した呼延通を見るなり、韓世忠は走って屋内に入り再び姿を見せなかった。呼延通は地に伏して泣き、淮陰に送り返された。
淮陰に戻ると崔徳明が、勝手に軍を離れた罪などを数え上げて、呼延通を杖で数十回打った。呼延通は憤りのあまり川に行き身を投げて死んだ。人々は皆その勇を惜しみ、韓世忠もまた後に悔いた。