ナントカ堂 2021/05/02 10:49

宋初無頼の徒②

 高瓊は無頼の徒で、もう少しで処刑されるところ助かった人物です。『宋史』巻二百八十九よりその伝を見ていきましょう。

 高瓊は代々燕の人である。祖父は霸、父は乾。五代のときに李景が江南に割拠して密かに契丹と結び、毎年一回使者を往復させていた。高霸は契丹に命じられ、高乾を連れて李景への使者に同行した。ちょうど江左に到着したところで、南唐の密偵が北からの使者を察知し、契丹と後周が対立することを狙って襲撃した。このため高霸は殺され、高乾は濠州に居住することになった。高霸を殺したのは後周の者だと喧伝された。高乾が濠州に住む間に三子が生まれたが、江左の地は貧しかったため、まもなく一族を連れて後周に帰した。このため亳州の蒙城に田を支給されて定住した。

 高瓊は若いころから勇猛にして無頼で、盗賊となって失敗し、市で磔にされることになった。このとき夏の大雨が降り、見張り役がやや油断したので、釘を外して逃亡した。
 その後、王審琦に仕え、当時京兆尹であった太宗が、その勇猛で将才のあるのを見抜いて招き、帳下に置いた。
 あるとき、太宗が宮中の宴席に加わって大いに酔い、退出するので太祖が苑門まで見送った。このとき高瓊は戴興・王超・李斌・桑賛と共に付き従っていたが、高瓊は左手で手綱を、右手で鐙を執り、太宗を上手に馬に乗せた。太祖は高瓊らを見て頼もしく思い、その機会に控鶴官の制服と器物・布帛を賜り、心を尽くして仕えるよう励ました。

 太宗が即位すると、高瓊は御龍直指揮使に抜擢された。太原遠征に従軍したとき、弓箭手を二部隊指揮して攻城に加わるよう命じられた。
 幽・薊遠征の際、太宗は間道を抜けて退却することとなり、高瓊は軍中の鼓吹と共にしんがりを務めた。六部隊が太宗に従っていたが途中ではぐれ、高瓊だけが部隊を率いて陣に到着した。太宗は大いに喜び労をねぎらった。
 太平興国四年(976)、天武都指揮使に昇進して西州刺史を領した。翌年、神衛右廂都指揮使に改められ、本州団練使を領した。太宗が大名に巡察して閲兵したとき、高瓊と日騎右廂都指揮使の朱守節は分担して京城内を巡検した。その後、失態により地方に出されて許州馬歩軍都指揮使となった。

 高瓊が着任したとき、許州には逃亡した龍騎兵数十人がおり、知州の臧丙が出迎えに城から出たときに、脅迫して担ぎ上げ謀叛を起こそう計画した。高瓊はこれを聞くと速やかに臧丙に伝え、急ぎ城に戻らせて、自らは従卒数十人を率い、弓矢を執って単騎で追い、楡林村で追い付いた。反乱兵は村に入ると民家に押し入り、壁に上って防戦した。反乱軍首領の青脚狼なる者が弩で狙いを付けて高瓊を射ようとした瞬間、高瓊が弓を引いて一発で斃した。全員を捕えて許州に送り、臧丙がこのことを報告した。
 ちょうどこれから北伐が行われるところで、高瓊は呼び戻され、馬歩軍都軍頭の地位を与えられて、薊州刺史を領した。楼船戦棹都指揮使となり、軍船千艘を率いて雄州に向かい、易州に城を築いた。帰還すると天武右廂都指揮使となり、本州団練使を領した。

 端拱の初め(988)に左廂に異動となって富州団練使を領し、その年の秋に単州防禦使として地方に出て、貝州部署に改められた。同時に范廷召・王超・孔守正が地方官となったが、数ヶ月後に范廷召らは再び軍職に任じられ、高瓊はそのままであったため大いに不満であった。このころ貝丘を鎮守していた王承衍は、その妻の公主がたびたび宮中に出入りしていたため、太宗が高瓊を大いに気に入っていることを知っていた。そこで王承衍はたびたび高瓊を宥めた。
 二年に都に召された。慣例では廉察以上の官職の者が入朝した場合に茶と薬を賜っていたが、高瓊は特例として茶と薬を賜った。
 三月、朔と易の帥臣に昇進となり、制書によって侍衛歩軍都指揮使の地位を与えられて、帰義軍節度使を領した。このとき范廷召らはようやく観察使を加えられたが、高瓊の地位には及ばなかった。
 その後、并州馬歩軍都部署となった。このころ潘美も太原にいて、以前よりの規定で、節度使で領軍職者はその上の地位であったが、高瓊は「潘美が古くから仕える臣である」として、上表してその下に付くことを願った。太宗はこれを認めた。
 守備兵の中に倉庫の食糧が腐っていると言い触らす者がいた。これを知った高瓊は、ある日、諸営に巡察に出た。士卒がこれから集まって食事を摂ろうとしたところに現れて、その飯を取って自ら食べると、兵たちに言った。
 「今は国境で何事も無く、汝らは何もせずに食事が得られる。これを幸福だと知るべきだ。」
 兵たちの不満は収まった。
 鎮州都部署に改められ、至道年間(995~997)に保大軍節度使に改められて、軍の指揮権は元のままであった。

 真宗が即位すると彰信軍節度使を加えられ、太宗山陵部署を任され、その後再び并代都部署となった。
 咸平年間(998~1003)に契丹が宋領内に攻め入り、契丹王母の率いる部隊が狼山の大夏にまで至った。真宗は自ら河朔に出陣し、楊允恭を前線に派遣した。高瓊は一旦召されてから、麾下を率いて土門に向かい、石保吉と鎮・定で合流した。その後、傅潛がなかなか進軍しなかった罪を問われて更迭され、高瓊が召されて後任となった。戦が終わると再び任地に戻り、転運使が政治の実績を報告したため、お褒めの詔が下された。

 咸平三年(1000)に任期を終えて都に戻ると、手に傷があって笏が持てなかった。真宗は木の棒を持って拝謁することを許し、殿前都指揮使の地位を与えた。
 これより前の事、范廷召と桑賛が国境を守る兵を指揮していながら、敵が現れると退却した。言官が処罰すべきと進言したため、真宗は高瓊に尋ねた。高瓊は言った。
 「それは軍令違反で法に照らせば誅するのが妥当です。しかし陛下は既に去年その罪を赦しました。今更処罰するのですか。また今まさに各地に兵を配備すべき時に、何も起きていないのに指揮官を変えれば、兵たちは疑心暗鬼に陥るのではないでしょうか。」
 このため処罰は行われなかった。

 景徳年間(1004~1007)、契丹が進行したため真宗が北に出陣した。このとき前軍は既に契丹と交戦していて、真宗は自ら前線に赴く事を望んだが、ある者が南に戻ることを勧めた。高瓊は言った。
 「敵軍は既に疲弊しています。陛下自らが前線に行って兵を励ませば勝利するでしょう。」
 真宗は喜び、即日、澶淵に進軍した。

 翌年、停戦となると兵卒を整理することとなり、十年間国境の守備兵をしていた者は軍校に任じ、老兵は引退させて本班剩員とすることとなった。高瓊は進み出て言った。
 「これでは兵たちのやる気を上げることはできません。宿衛は苦労していないとでも言うのですか。」
 このため八年間勤めた者は全て軍校に任じられることとなった。

 馬軍都校の葛霸が臨時に歩軍司となっていたが、病のため引退を願い出たため、真宗は高瓊に二司を兼領するよう命じた。高瓊は従容として言った。
 「臣は老いていますが犬馬の労を厭わず、一人で二職を束ねましょう。臣が先帝に仕えていた時、侍衛都虞候以上は常に十名いて、その職位は宰相に次ぎ、容易に任免できました。また兵たちに人望がある人物が任命されてこそ、国境で非常事態があった場合にお役に立つでしょう。」
 真宗は深く同意した。まもなく以前からの病のため、願い出て軍権を解かれ、検校太尉・忠武軍節度使の地位を与えられた。
 三年(1006)冬、高瓊の病が重くなったため、真宗は自ら邸宅に行って見舞いをしようとしたが、宰相が不可としたため中止となった。七十二歳で卒去し、侍中を追贈された。

 高瓊は字が読めなかったが、軍政は熟知して、それを自任していたため、副将と協議することは少なかった。子供たちを善導し、その子の継勲・継宣・継忠・継密・継和・継隆・継元のうち、継勲と継宣が最も有名である。


 これが北宋期に書かれた『隆平集』だと、無頼で処刑されかけたという記述は無く、代わりに「あるとき高瓊が外で寝ていて、父が行ってみてみると、金の鎧を着た者が側にいるように見えた。父は不思議に思った」と書かれていて、『東都事略』もこれを引き継いで書いています。

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