曹彬の故事
wikipediaにもある「曹彬が茶と酒を管理する役人だった頃に、太祖に官の酒を求めてられて自費で買った酒を渡した」という故事、何か変。
大概が『宋名臣言行録』から引いているのですが、その元ネタはおそらく『涑水紀聞』巻一の終わりのあたりに記されている「太祖事世宗于檀州、曹彬為世宗親、掌茶酒。(太祖が檀州で世宗に仕えていたとき、曹彬は世宗に信頼されて茶と酒を管理していた。)」で始まる記事。
まず世宗は檀州に着任したことは無く、おそらくは澶州の間違いだと思います。それで世宗が澶州に居た期間は建国年の広順元年から三年まで。三年三月に開封尹となって、翌年正月の後周の太祖の崩御に伴って即位しています。
一方で『宋史』巻一には宋の太祖について「広順の初めに東西班行首となり、滑州副指揮を拝命した。世宗が開封尹となると、開封府馬直軍使に転じた。」とあります。
つまり世宗が澶州に居た頃は宋の太祖は滑州に居たので、澶州の時の事では無いことになります。
では世宗と太祖が同じ開封に居た頃の話かと言うと、曹彬は『宋史』巻二百五十八の本伝を見ると、澶州時代は世宗の部下だったものの、その後は河中都監となっており開封には居なかったのでこれも違います。
そもそも曹彬は既に後漢時代に成徳軍牙将(成徳軍節度使の親衛隊長として数千人を指揮する将)となって以来基本的に軍人で、酒の出納を行う下吏のような事をするとも思えず、司馬光か或いはそれ以前の人が誰かと取り違えたのではないでしょうか。
(実際、『宋史』も曹彬の経歴から見たらこの話はおかしいと思ったのか採り入れていませんし)