李継隆
西夏の君主が李継捧と李継遷、これに対して宋が送り込んだ武将が李継隆。親戚でも何でもないのに紛らわしい名前にするな、と言いたい。
で、この人の李継隆の父親の李処耘がちょっとやばい人で『宋史』巻二百五十七にこう記されています。
北進して敖山砦に到着すると、敵は砦を棄てて遁走し、多くの捕虜を得た。
李処耘は捕虜を解放したが、その中から太った者数十人を選んで、兵たちに分けて食べさせるよう側近に命じた。また若くて健康な者に入れ墨して、先に朗州に戻るよう命じた。日が暮れたので砦の中に泊まり、夜が明けると慕容延釗の本軍が到着した。入れ墨を入れられた者たちは先に城内に入ると「捕虜は全員大軍に食べられた」と言った。朗人は大いに恐れ、城に火を放って四散した。
と言うか、まあ、本当に食べたかどうかは分からないんですが。
李継隆も若い頃かなり雑で、このように記されています。
呉の将を捕えて都に護送することとなったが、項県まで来ると病となったので、その首を斬って献じた。太祖は益々高く評価した。
いや、何で高く評価するの?
でも結構知略があり、対契丹戦の時の事がこのように記されています。
傅潜と米信の軍が壊滅し、李継隆麾下の軍だけが隊列を成したまま帰還した。
戻ると李継隆は定州知州に任じられ、続いて届いた詔により生き残った兵を纏めるよう命じられた。李継隆は書吏に命じて詔を全て書きとらせた。十日ほどして逃げ延びた兵が定州に集まったが、自分がどこに行けばよいのかわからなかった。李継隆は詔を調べて兵たちに身分証を発給し、各々自分たちの駐屯地に戻らせた。太宗は益々その知略を高く評価した。