狄青
wikipediaの「狄青」の項に、狄仁傑の子孫が取り入ろうとして家系図を持ってきた逸話が記されていて、ちょっといい話になっていますが出典は『夢渓筆談』巻九です。
で、せっかく本人が生前謙虚な人だったのに、墓誌を頼まれた王珪が狄仁傑の子孫ということにしています。以下『華陽集』巻四十七に収められている墓誌の一部です。
碑臣が謹んで案ずるに、狄氏は周の成王が少子を狄城に封じたのに始まり、これに因んで氏とした。子孫は代々天水に住み、梁文恵公(狄仁傑)に至って唐代に大いに名を顕した。その子孫の一部が汾晋に移った。公から聞いたところではもともとは西河の人で、贈太傅の応之が公の曽祖父である。その子が贈太師の真、太師の子が贈中書令の普、その妻が兖国太夫人の侯氏で、公はその次子である。
諱は青、字は漢臣。生まれつき立派な風貌で騎射を得意とし、若くして将帥の節を好み郷里で若い任侠の徒を多く従えていた。初め都に遊学して、兵として拱聖軍に属した。
中盤は狄青の生涯についてですが有名なので割愛して、家族についてこう記しています。
公の妻は魏氏で定国夫人に封ぜられた。
男子は六人。長男の諒は殿班奉職となったが早くに亡くなった。次男の咨は西上閤門副使、三男の詠は内殿崇班・閤門祗候、四男の譓は内殿崇班、五男の説は東頭供奉官、六男の諌は内殿崇班で、説と諫も早くに亡くなった
娘は二人いたが嫁ぐ前に亡くなった。
孫の璋は左侍禁となり、璹はまだ幼い。
墓誌が記された時点では生まれていないのでしょうが、孫に狄琉という人物がいて、『建炎以来繋年要録』巻百二十一の紹興八年七月己丑条にこうあります。
故武功大夫・貴州剌史の狄琉に特に拱衛大夫・貴州防禦使を追贈し、家族五人に官職を与えた。狄琉は狄青の孫である。靖康年間に并代雲中等路廉訪使となり、太原陥落時に死んだ。家族が朝廷に訴えたため今回の追贈となった。
つまり北宋滅亡時に金軍に攻められて死んだのです。
私は未見ですが何冠環氏の『北宋武將研究』に『狄武襄公家譜』というものが紹介されていて、その中には六代目の子孫の狄彦視、八代目の子孫の狄瑜、九代目の子孫の狄士元が指揮同知となったとあるそうで、代々武門の家として続いたようです。
なお『宋史』巻二百八十八「范雍」には「狄青は小校のときに、法に則れば斬罪になるところを、范雍は猶予した」とありますが、いったい何をしたのやら。