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ナントカ堂

ナントカ堂 2020年12月12日 00:30

宋太宗家臣団⑥

 前回まで五回に亘って『宋史』巻二百七十六から、太宗が晋王であった頃からの家臣の伝を挙げてきました。巻二百七十六は前半が能吏の伝で真ん中に論賛が入って一旦纏められ、後編が太宗の家臣六人の伝です。一方、巻二百六十八は全巻が晋王時代からの家臣の伝で、論賛にこうあります。


 柴禹錫以下、藩邸に給事して取り立てられ、高官となった者は七人。楊守一は実直、趙鎔は勤勉で、長い間勤めて益々職務に励んだ。張遜は理財に優れていたが嫉妬心があり、周瑩は軍事に練達していたが無暗に残酷で、柴禹錫はもともとは勤勉であったが徒党を組んで政治に悪影響を及ぼすことが止められなかった。王顕は慎み深かったが学識に乏しかったため余裕の無さを謗られた。勤勉さで信頼され、老いて徳があり、終始一貫していたのは王継英だけである。『易経』で言うところの「君子、終わり有れば吉。」とはこのことを言う。


 今回は柴禹錫について見ていきましょう。

柴禹錫

 柴禹錫、字は玄圭、大名の人である。若いころ、客人が柴禹錫を見て言った。
 「この子の素質は非凡である。学問でそれを補えば必ずや将相の地位に上るであろう。」
 これより柴禹錫は学問に励んだ。
 当時太宗は晋王で、柴禹錫は受け答えが良かったため、給事の地位を得た。
 太平興国の初め(976、太宗の初の元号)に供奉官となり、三年に翰林副使に改められて、如京使に昇進し翰林司を掌った。
 晋王だった頃からの家臣であったため、宿直のたびに召されて宮中外の事を尋ねられた。宣徽北院使に昇進し、宝積坊に邸宅を賜った。
 秦王の廷美の陰謀を暴いて枢密副使に抜擢され、翌年、南院使に転じた。既に勤続年数が長かったが、ますます勤務に励んだ。

 雍熙年間(984~987)に宮城を拡張することが議された。柴禹錫の有する別業が予定地に含まれたため、柴禹錫はこれを官邸に替えるよう求めた。これを機に太宗とは疎遠となった。
 柴禹錫は宰相の宋琪と仲が良かった。このころ広州の徐休復が、転運使の王延範の不法行為を密かに訴え、更に重臣の中にもこれに加担している者がいると言及した。しかし誰もこの件に対応しようとしなかった。太宗は事のついでに宋琪と柴禹錫に「王延範とは何者だ。」と尋ねた。王延範の妻と宋琪の妻は遠い親戚であったため、宋琪は王延範の忠勤を力説し、柴禹錫もまた宋琪に賛同した。太宗は、宋琪と柴禹錫が王延範と通じていると考え、ますます不快となった。
 更に柴禹錫が宋琪のために、盧多遜の旧宅を賜るよう働きかけると、太宗はますますその一派を憎むようになった。太宗は、無礼な振る舞いがあったためとして宋琪を宰相を罷免した。派閥を形成していたためと公言することを憚ったからである。そして詔を下して柴禹錫を責め、驍衛大将軍の地位で滄州知州として地方に出した。
 柴禹錫は任地で政務に励み、領民が浜州まで来てその実績を列挙した書状を届け、これが上聞に達したため、州観察使に改められた。その後、州と鎮州の駐泊部署に異動となった。にわかに州知州となると、州民が留任を願い出たので三年留まり、お褒めの詔が下された。その後、永興軍知府に異動となり、再び都に召されて宣徽北院使・知枢密院事となった。

 至道の初め(995)に鎮寧軍節度使・涇州知州に任命され、赴任の挨拶に行くと太宗からこう言われた。
 「本来宣徽使の後は防禦使にまでしかなれない。今、卿を節度使にしてしかも要所を任せるのは、特別な優遇である。」
 柴禹錫は涙を流し嗚咽するのみであった。
 咸平年間(998~1003)に貝州知州に異動となった。その年、契丹軍が突如貝州に攻め寄せた。柴禹錫が厳重に守りを固めたため、契丹軍は間もなく撤退した。翌年、陝州に異動となった。

 景徳の初め(1004)、子の柴宗慶が選ばれて公主の婿となった。柴禹錫が召されて都に戻ると、公主が柴禹錫の家に来て会った。公主は義父と義母に対する礼をしようとしたが、柴禹錫は固辞して受けなかった。しばらくして任地に戻ったが、まもなく卒去した。享年六十二。太尉を追贈された。子の宗亮は太子中允、宗慶は永清軍節度使となった。


 柴宗慶の伝は巻四百六十三の「外戚上」にあります。


柴宗慶

 柴宗慶、字は天祐、大名の人である。祖父の柴禹錫は鎮寧軍節度使、父の柴宗亮は太子中舎である。柴宗慶は太宗の娘の魯国長公主を娶ったとき、柴禹錫の孫ではなく子の世代の資格で蔭位を受け、左衛将軍・馬都尉を拝命して恩州刺史を領した。柴禹錫が卒去すると、名目上ではなく実際に康州防禦使の任に就き、後に復州防禦使に改められた。
 旧制では諸公主の家で必要な物は市で買うことになっていた。柴宗慶は家の使用人に命じて地方に炭を買いに行かせ、途中の通行税は免除されて、都に到着すると全て売却して、それから市で必要な分を買っていた。詔が下され、以後、公主の家で必要な物を市で買うことは中止となった。
 汾陰での祭祀に随行して行宮四面都巡検となり、その後、泉州管内観察使に昇進した。このとき柴宗慶は、陝西で材木を購入して都まで送る際の通行税の免除を願い出た。真宗は言った。
 「以前に汝に私的に材木を売って民の利を奪うなと諭したが、今またそれを言うか。」
 その後、河東提点刑獄が「柴宗慶は使用人に馬を買わせて通行税を納めていない」と弾劾した。真宗は罪を問うのを猶予した。武勝軍節度観察留後となり、更に彰徳軍節度使となった。

 仁宗が即位すると、静難軍に、更に永清軍から彰徳軍に異動となった。同中書門下平章事を拝命し、武成軍節度使となり州知州として赴任したが、任地に着く前に陝州と州の知州に改められた。
 後に鄭州判官となったが、部曲に勝手な行動を許して民に迷惑を掛けた。柴宗慶は都に呼び戻されて奉朝請の地位に置かれ、地方官でなくなったことで毎年の公用銭の支出が四百万減った。
 しばらく経ってから、済州判官として赴任することとなったが、御史中丞の賈昌朝の意見により現地には行かせず、公使銭の使用も差し止めた。
 卒去すると中書令を追贈し、栄密と諡した。妻の公主は累封されて楚国大長公主となり、柴宗慶より先に没した。

 柴宗慶は数々の官職を歴任したが過失が多く、生来極めて貪欲で巨万の富を蓄えたが、それでも満足しなかった。その甚だしさを芸人にまでからかわれたが、柴宗慶はそのことを知っても改めようとしなかった。男子は無く、没したときにその資産を官に納めることを願い出たが、柴宗慶の娘がまだ幼かったので仁宗は許可しなかった。人々は「柴宗慶は公主の婿に選ばれ栄光と高い身分を得て四十年あまり。最後にはその貯めこんだものを献上して軍用に充てた。これで今までの失態を補ったというものだ。」と話し合った。

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