ナントカ堂 2020/12/13 11:43

何喜文

 以下、『大南寔録』「正編列伝初集」巻二十八より、何喜文伝及び附伝です。


 何喜文は清の四川の人で、白蓮教の残党である。
 初めに海外にて人々を集めて天地会と号し、閩粵間で略奪を行っていた。

 丙午(1786)春、崑崙島に停泊していた時、嘉隆帝が望閣に居ると聞き、帰順しようと考え、部下の梁文英・周遠権・黄忠仝らを遣わした。嘉隆帝は喜んで帰順を受け入れた。

 丁未(1787)秋、嘉隆帝は暹より帰国して古骨島に至ると、阮文誠や阮太元らを遣わして招諭した。何喜文は軍船を率いて帰順し、巡海都営の地位を与えられた。部下の梁文英らは各々地位に応じて統兵・総兵・飛騎尉の地位を与えられた。
 美湫の戦いで官軍が敗れると、何喜文は崑崙に撤退した。

 戊申(1788)、召されて行在に行き、銭百緡・米二百方・絹布二十疋あまりを賜った。

 軍船を率いて官軍に従い賊を討ち、乙酉年(1789)、軍船に乗って帰仁から順化・北河を経て敵情を探り、廉州に行って招諭し、海賊船二十三艘を帰順させた。

 庚戌(1790)、阮文誠に従って角魚堡を守備した。

 壬子(1792)夏、嘉隆帝が帰仁を攻撃するのに従った。水戦を得意とし、唐兵を指揮して、常に親征に従って、数多の顕著な軍功を挙げた。

 辛酉(1801)冬、陣中で病没した。帝は悼惜して止まず、官費により手厚く葬儀を行った。

 嘉隆三年(1804)に嘉定顕忠祠に列祀され、六年に昭毅将軍・水軍統制上護軍・定望閣功・列在二等を追贈されて、墓守を給された。

 子は二人。蔭位により何楊は該府艚、何養は該隊となった。何楊の子の何福も蔭位により恩騎尉となった。

 部下の梁文英・周遠権・黄忠仝は官職を歴任して、巡海副都営にまで至った。
 黄忠仝は明命年間に罪により免官となったが、まもなく復帰して正巡海都營となり、三品俸を支給されて、嘉定城差派に属した。黄忠仝の子の黄諒は蔭位により奉恩尉となった。

 張公引は清の福建の人で、南に来て帰順した。中興の初めに従軍して功があり、中軍営・欽差掌奇・管全勇道を歴任して、敵を討った。また新旧の唐人を管掌した。まもなく卒去した。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索