ナントカ堂 2020/12/05 00:36

郭従義

 「宋太宗家臣団⑤」で、宋に仕えた沙陀系の人物について触れたので、今回はその代表として『宋史』巻二百五十二より、郭従義の伝を挙げましょう。


 郭従義、その先祖は沙陀部の人で、父の郭紹古は後唐の荘宗に忠実に仕えて特に信任され、李姓を賜った。
 郭紹古が卒去したとき郭従義はまだ幼かったので、荘宗が宮中で養育し、諸子と共に育った。明宗は郭紹古と同僚として荘宗に仕えていたので、私的に親密であり、即位すると郭従義を宮中の官職に任じた。郭従義は累進して内園使となった。

 後晋の天福の初め(936)、再び郭姓に戻った。失態により宿州団練副使として地方に出され、父の喪に服すため北に戻って、太原に居を定めた。後漢の高祖はまだ地方に鎮守していた頃に郭従義を推薦して、郭従義は馬歩軍都虞候となった。しばしば兵を率いて代北で契丹を破り、高祖が皇帝となったときには、郭従義が率先して即位に賛同した。鄭州防禦使に抜擢され、東南道行営都虞候となり、本隊を率いて太行路から黄河を渡った。

 後漢の高祖が汴に入ると、郭従義は河北都巡検使となった。
 杜重威が大名に拠って叛くと、郭従義は行営諸軍都虞候となり、重杜威が降ると、鎮寧軍節度使となった。
 趙思綰が叛くと、行営都部署となり、軍服・武器・金帯を賜った。永興に進軍して城を包囲すると、郭従義は永興軍節度使となった。趙思綰軍は兵糧が尽き、城内では人が相食む状況となったので、郭従義は、趙思綰に降るよう説いた矢文を城内に射た。それから朝廷に対して、華州の全権を任されることを願い出た。隠帝がこれを許可すると、直ちに趙思綰にもとに使者が遣わして説得した。趙思綰は開門して降伏した。翌日、郭従義は軍と共に整然と入城した。館で休憩していると、趙思綰が入ってきて挨拶をしたので、衛兵に命じて捕らえさせ、趙思綰の一党三百人あまりと共に全員市で斬った。この功により郭従義は同平章事を加えられた。

 後周の広順の初め(951)、兼侍中を加えられて、許州に移鎮となった。
 顕徳の初め(954)、世宗自らが郊祀を行い、郭従義に検校太師を加えた。
 世宗が劉崇討伐に向かおうとしたとき、郭従義が来朝し、ちょうど良い機会であったので従軍することを願い出た。世宗は大いに喜び、郭従義を天平軍節度使に改め、符彦卿に従って忻口で契丹を討つよう命じた。帰還すると功により兼中書令を加えられた。
 四年、淮南遠征に従軍して徐州に移鎮となった。
 世宗が迎鑾から泗州に到着すると、行在まで行って拝謁した。
 恭帝が即位すると、自身の幕府を開く資格を与えられた。

 宋初に守中書令を加えられた。太祖が揚州に遠征すると、郭従義はその途中で出迎えて同行することを願い出たが、受理されなかった。
 乾徳二年(964)、更に河中尹・護国国節度使となり、六年に病のため都に戻った。
 開宝二年(969)に左金吾衛上将軍に改められ、翌年、老齢のため辞任を願い出て、太子太師を拝命して致仕し、四年に卒去した。享年六十三。中書令を追贈された。

 郭従義は生来重々しくて知略があり、多くの技能を身に付け、飛白書をもっとも得意とした。
 趙思綰が叛いたとき、巡検使の喬守温が遁走し、その妾は全て趙思綰のものとなった。趙思綰が滅ぶと、郭従義はこれを全て自分のものにした。喬守温は郭従義のもとに来て愛妾を帰すよう求めたので、あえて拒むようなことはしなかったが、恨みを抱き、ついには喬守温が逃げ出した罪を告発して棄市にした。人々は皆これを不当な処罰だと考えた。
 郭従義は撃球を得意とし、便殿で太祖の側にいたとき、撃つよう命じられた。そこで郭従義は服を着替えてロバに跨り、宮殿の庭を駆け回った。旋回しながら撃ち、あらゆる妙技を見せた。演技が終わると太祖は郭従義に座席を与えてこう言った。
 「卿よ、その技は誠に見事ではあるが、将相のするようなものではない。」
 郭従義は大いに恥じ入った。

 子は郭守忠と郭守信である。郭守忠は閑厩副使になった。郭守信は字を宝臣といい、よく書を知り、士大夫と交遊し、東上閣門使・邢州知州となり、卒去した。その子の郭世隆は比部員外郎となり、郭世隆の子は郭昭祐と郭承祐で、郭昭祐は閣門祗候となった。

郭承祐(曽孫)

 郭承祐、字は天錫、舒王の元偁の娘を娶り、西頭供奉官の地位に就けられた。仁宗が皇太子となると、郭承祐は左清道率府率・春坊左謁者に任じられた。真宗は玉石の小牌二つに銘を刻んで「慎み深くあれ」と諭して渡した。
 仁宗が即位すると西院副使兼閣道通事舎人・勾当翰林司となり、さらに西上閣門副使となった。仁宗の酒と金器を盗んだことを罪に問われて除名され、岳州に籍を移され、許州別駕に左遷された。復帰して率府率となり、西京作坊使・勾当右騏驥院に昇進した。院の大校が馬を試すときには、鞭を鳴らして静粛にしてから帝をお迎えして行う決まりであったが、郭承祐は大校に代わって馬を試した。その無作法さはかくの如しである。その後、六宅使・象州団練使に昇進した。

 郭承祐は狡猾な性格であったが、皇太子と親しく舒王の娘を娶っていたので、除名されてもまた登用された。人を讒言し、或いはほんの僅かな過失を言い立てたので、同僚からは「武諌官」と呼ばれた。
 衛州刺史・相州知州に任命され、都に戻って群牧副使となり、 濰州団練使に任命され、曹州・鄭州・澶州・鄆州・貝州の知州を歴任して、澶州兵馬総管に遷された。下働きの者で不審な者がいると、奏上せずに捕らえて斬った。
 再び州を治めることとなって、赴任する途中で朝廷の使者と会い、招き寄せて「軍官に欠員がどれほどいるか」と尋ねた。使者は「朝廷では武の才がある者を選んでおります。」と言った。郭承祐は起き上がって使者を引き寄せると自分のことをアピールした。側近はみなこれを笑った。

 郭承祐は都に戻ると龍神衛四廂都指揮使となった。父の喪に服した後、真定府・定州等路副都総管として復帰した。諌官の欧陽脩と余靖が「郭承祐にはそれほどの能力が無い」と論じたため、相州知州に改められ、続いて大名府副都総管に遷った。
 枢密使の杜衍が郭承祐の驕慢を嫌って奏上したので、軍事職を辞めさせられ、相州観察使・永興軍副都総管となった。その後、知州に改められ、河陽兵馬総管に遷った。
 杜衍が政治家を辞めると、再び昇進して殿前都虞候となり、代州副都総管兼代州知州となった。州に異動となったとき、諌官の銭明逸が「郭承祐は勝手な政治を行うのでの民は以前から苦しんでいた」と言ったので、相州に改められた。それから秦鳳路副総管となり、累進して建武軍節度使・殿前副都指揮使となった。

 続いて宣徽南院使のまま判応天府となった。応天府は城壁が完成されずに、盗賊が来ても防ぐことが出来なかった。郭承祐は城の南の関より初めて、沙・濉・盟の三河を掘って深くした。郭承祐が亳州に異動すると、諌官がこのような報告した。
 「郭承祐が応天府にいた頃、食糧をまともに支給せず、更には応天府への食糧の搬入まで勝手に止め、朝廷の命令を受けても守備兵を出さず、法を無視して軽い罪でも杖を打ち、政庁の備品を持ち出し、外出時には旗と槍を掲げて禁裏の兵と同じようにして自分の周りを護衛させました。思い上がり甚だしく人臣としての礼も無い状態です。」
 そこで宣徽南院使・許州都総管を辞めさせられ、保静軍節度使・許州知州に左遷された。

 転運使の蘇舜元は郭承祐を、全軍の統率者としての才があるとして推薦し、政事も漢代の龔遂・黄覇に匹敵するものであると言った。仁宗は重臣達に向かってこう言った。
 「あの者は凡人である。龔遂・黄覇と比較してどこに見所があるのか。」
 鄭州知州に改められ赴任する途中、急病となり卒去した。太尉を贈られ、諡は密とした。郭承祐は赴任する先々で多くの厄介事を引き起こし、民衆はこれに苦しんだ。


 「郭従義」を検索すると「収兵権」の話が出てきます。
 「収兵権」の内容として、郭従義の参加した宴席ではなく、石守信らの参加した宴席でのこととして記されていることですが、兵権を取り上げる代わりに子孫の面倒を見ると約束しています。
 おそらく郭従義らにもこういう約束をしたため、使い物にならない曽孫の郭承祐も、舒王の娘を娶らせ要職に就けるなどしなければならなかったのでしょう。

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