ナントカ堂 2020/11/28 06:14

宋太宗家臣団⑤

 今回は『宋史』巻二百七十六の最後、安忠です。


 安忠は河南の洛陽の人である。祖父の安叔千は、後晋に仕えて各地の節度使を歴任し、太子太師を以って致仕した。父の安延韜は左清道率府率となった。

 安忠は立派な体格であったが、書を知らず、多少姓名が読めるだけであった。即位前の太宗に仕えること二十年、太宗が即位すると、東頭供奉官の地位を与えられて、弓箭庫を管掌した。その後、内弓箭庫副使・西京作坊使に昇進し、翰林司・内衣庫・医官院を管掌し、屯を率いて雄州に駐屯した。

 曹彬が契丹と戦って拒馬河で敗れると、安忠分は砦から一部の兵を出して国境沿いに配置し、敵の遊撃隊に備え、更に河を浚って深めその土で城壁を固めた。
 まもなく威虜軍に異動となり、太宗が鎮定路に陣を敷くと左の陣取り、東上閤門使に抜擢された。大将の李継隆・田重進・崔翰と共に祁州の北まで契丹軍を追い、詔書にて褒められた。
 端拱元年(988)に高陽関屯兵護軍に移り、契丹が鎮・定を攻めると、崔翰と共に防戦した。傅潜が瀛州に陣を置くと、安忠は城の西面に陣を敷いた。
 二年に寿州知州に異動となり、翌月に貝州に異動となった。貝州では劇賊十二人が長い間民を悩ませていた。安忠はこれらを尽く捕縛した。

 淳化四年(993)、判左金吾街仗となった。王賓が揚州知州として地方に出ると、安忠が代わって左龍武軍大将軍となった。このとき安忠は泣いてこう願った。
 「諸衛の将軍は朝廷の外に居て、帝の側近くに居られません。元の役職に戻されるよう願います。」
 太宗は笑って「禁衛の官はいにしえよりのもので、大将軍は三品官である。汝は朝廷の序列を知らないようだな。」と言い、願いの通りにした。
 まもなく東上閤門使に復して、淮南諸州兵馬鈐轄に充てられた。
 至道三年(997)、太宗没年)に病となって郷里に戻ることを願い出、泗州まで来たところで卒去した。享年六十四。
 天禧元年(1017)に孫の安惟慶を取り立てて殿直とした。


 上記にある安忠の祖父の安叔千は、『旧五代史』巻百二十三に伝があります。


 安叔千は沙陀三部落の種である。父の安懐盛は後唐の武皇に仕え、驍勇を以って聞こえた。安叔千は騎射を習い、荘宗が河南を平定するのに従軍して奉安部将となった。
 天成の初め(926)に、後唐が定州を攻めると、先鋒都指揮使に任命され、王都が平定されると秦州刺史の地位を与えられて、涿と易の政務も任された。
 清泰の初め(934)、契丹が雁門に攻め込むと、安叔千は石敬瑭(後晋の高祖)に従って迎え撃ち、敗走させて、検校太保・振武節度使に昇進した。
 石敬瑭が即位すると同平章事を加えられ、天福年間(936~943)に邠・滄・邢・晋の四鎮の節度使を歴任した。
 安叔千は粗野で文字が読めず、当時の人々から「安没字」と呼ばれ、話す内容はまるで文字の無い碑文のようで、ただ外見だけを取り繕っていた。
 開運の初め(944)、後晋の朝廷が全軍で契丹を攻撃しようとすると、安叔千は行営都排陣使に任命され、まもなく左金吾衛上将軍に改められた。
 契丹軍が汴に入ると、百官は赤崗まで来て出迎えた。契丹主は高い丘に登って陣を敷き、漢官を慰撫した。安叔千の番となり契丹語で話しかけると、契丹主は言った。
 「汝は安没字ではないか。卿が邢州にいたころ、遠路誼を通じたので我らはここに至った。汝はそのままの地位にいるように。」
 安叔千は拝礼して退出し、まもなく鎮国軍節度使の地位を与えられた。
 後漢の建国後、交替して都に戻った。以前に率先して契丹に服従したことを常に恥じ、しばらくして太子太師の地位を与えられて致仕した。まもなく許しを得て洛陽に帰郷し、広順二年(952)冬に卒去した。享年七十二。詔により侍中を追贈された。


 この他、沙陀系の人物としては、楊承信(『宋史』巻二百五十二)・郭従義(『宋史』巻二百五十二)・安守忠(『宋史』巻二百七十五)などが挙げられます。

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