ナントカ堂 2020/11/24 21:59

宋太宗家臣団④

 今回も『宋史』巻二百七十六からで、宣祖(太祖の父)の代から仕えている王賓です。


王賓

 王賓は許州の許田の人である。慎み深い性格で、十数歳で宣祖に近侍し、大人になると騎射を得意とした。太宗が泰寧軍節度使となると、太祖は王賓を府の補佐役に就けた。
 太平興国の初め(976)に東頭供奉官・亳州監軍となった。王賓の妻は気性が荒く、王賓はこれを制することができなかった。当時、監軍は家族を連れて任地に赴いてはならないことになっていたが、王賓の妻は勝手に亳州まで来た。王賓がこれを報告すると、太宗は王賓の妻を呼び出し、衛士に命じて押さえつけさせ、杖で百回打ったうえで、忠靖軍の兵の妻とした。王賓の妻はその夜死んだ。王賓は儀鸞副使に昇進し、内酒坊を領した。

 太原遠征に従軍し、更に范陽遠征にも従軍して、彰信節度使の劉遇と共に城の東面を攻めた。
 五年に太宗が北漢に親征すると、車駕北巡、都の留守を預かる王仁贍の副として大内都部署となった。
 七年、洛苑使に改められた。このころ汴の漕運が滞り、兵への食糧支給も十分になされなくなっていた。そこで太宗は別に水路発運司と陸路発運司を創設した。王賓に心を尽くして事に当たるよう命じて演州刺史を領させ、儒州刺史の許昌裔と共に発運司の仕事に従事させた。四年間で目標以上の利益を上げ、人々から才能ある人物と尊敬され、まもなく右神武将軍に改められた。

 黎陽は水路と陸路の交通の要衝で、禁軍一万以上が常駐していた。そこで度支使の張遜の推薦により、王賓が黎陽軍護軍となり黄御両河発運事を兼領して、まもなく黎陽団練使を領した。
 王賓が黎陽に通利軍を設置するよう進言すると、知軍事に任命された。王賓は着任すると、公署と郵館を設け、備品も全て揃えた。通利軍大将軍を加えられて、毎年別に銭二百万を支給された。まもなく河北水陸路転運使を兼ねた。

 貝州に兵がいたが居住施設が無く、分かれて邸店に仮住まいしていた。王賓は空き地を選んで千二百以上の家を建てて兵たちを住まわせたため、お褒めの詔が下された。その後、都に召されて右羽林大将軍・判左金吾兼六軍諸衛儀仗司事となった。
 淳化四年(993)に揚州知州兼淮南発運使として地方に赴任し、その後、異動となって通許鎮都監となった。
 至道元年(995)に七十三歳で卒去して、通例より多くの弔意の品が贈られた。

 王賓は宣祖・太祖・太宗に六十年近く仕え、最も古くから仕えていたため特別に恩寵を受けた。数千万の賜り物を受けたが全ては仏寺に寄進した。
 黎陽に居た頃、視察中に古寺の跡を見つけると、即刻金銭を奉納して修築した。このとき地面を一丈あまり掘ると、いくつかの石仏と石碣が見つかり、そこに王賓との姓名が記されていた。王賓が奇跡として報告すると、太宗は寺に淳化寺との名を賜り、印刷した大蔵経一式を賜り、銭三百万を与えて運営資金とした。


 太宗って、上記の王賓の妻の件の他にも、北漢の劉継元が降伏した後に、官僚や金持ち連行してから太原に火を放って住民焼き殺したり、結構やることがエグイ。
 王賓の他に宣祖時代から仕えていた人物に、巻二百八十の李琪がいます。


李琪

 李琪は河南の伊闕の人である。軍事の家に生まれ育ち、機会を得て宣祖の側に仕えた。太祖の側近となると、能力を認められて家政を任された。太祖が皇帝となると地方官に任じられたが、太宗が開封尹となると、これに仕えるよう命じられた。これより累進して効忠都虞候・開封府馬歩軍副都指揮使となり、富州刺史を領した。自ら求めて拝謁した際、「太祖の代から仕えているのに都に邸宅がありません」と言ったため、太宗は仮に役宅を与えた。

 李琪は粗野な性格で、三代に仕えたが、無作法なのを改めなかった。士卒を派遣して関や橋を守備させるに当たり、常に贈り物を期待して、その多寡で辛い部署か楽な部署かの配属を決めた。太宗はこれを知ると、李琪を屯衛大将軍に改めたが、領郡はもとのままとした。そのとき太宗は言った。
 「私は、李琪が過失を犯さない地に赴任させようとのみ考えている。」
 そして左武衛大将軍を加えた。

 景徳年間(1004~1007)、老齢と病のため、五日に一回帝に私室で拝謁するのみとなるよう求める上表して、まもなく台諌に糾弾され、通常の朝礼に参加するよう命じられた。古くからの臣であることを考慮した真宗は、特例として引退させてこれまで同様の俸禄を与えることとした。
 大中祥符元年(1008)、八十四歳で卒去した。


 台諌=文官も、相手が武官だと八十歳の老人に対しても容赦ないな。
 さて同様に幼少の頃より仕えていたのが王延徳(巻三百九)で、この人も真宗時代まで仕えています。


王延徳

 王延徳は開封の東明の人である。曾祖父の王芝は濮陽令、祖父の王璋は相州録事参軍であった。
 後晋の末に契丹が攻め込むと、父の王温は地元の勇猛な者を率いて郷里を守ったため、人々から感謝された。宣祖は畿甸の兵を指揮すると、王温と親密となった。
 王延徳が子供の頃、その慎み深い態度を気に入った宣祖は、召して側近くに仕えさせた。太宗が開封尹となると、身辺警護隊長の地位に就け、厨房を専管させて、最も信頼した。

 太平興国の初め(976、太宗即位年、12月のみ)に御厨副使の地位を与え、数か月後には正使に昇進した。
 太原遠征に従軍し、まもなく尚食使を加えられ、浚儀県の寿昌坊に一区画分の邸宅を賜った。
 まもなく薊州刺史を領して、武徳司を兼掌し、後に皇城使に改められて、御輦院と左蔵庫を管掌した。王延徳は五つの印を領し、拝謁の際に減らされることを強く求めて、左蔵と御厨を免ぜられた。
 八年、親王諸宮使を兼任することとなった。
 王延徳は慎み深い性格で、古くからの臣であったため、拝謁のたびに宮廷外の事を尋ねられた。
 端拱の初め(988)に薊州団練使を領した。
 淳化年間(990~994)、王延徳・王継恩(李順の乱を平定した宦官)・杜彦鈞(杜太后の甥)は昇進すべきところ、既に使職としては最上位に在ったため、特に昭宣使を新設して、王延徳らをこれに任じた。
 至道二年(996)、平州防禦使を加領された。

 真宗が即位すると、懐州に改領となり、太宗の埋葬の際に、沿道の物資の供給の責任者となった。
 咸平の初め(998)に華州知州として赴任することとなった。謝礼のため拝謁した日、昭宣使を免じられるよう求めて、容れられた。昭宣使のままで知州となれば、昭宣使の地位が軽く見られることと、俸禄が多すぎるためである。
 真宗が大名に行幸すると、王延徳は東京旧城都巡検使となった。
 翌年、中風のために引退を願い出ると、郷里に帰ることを許され、その年の冬に六十四歳で卒去し、邕州観察使を追贈された。

 王延徳は任官するたびに、出来事を書に纏めることを好んだ。御厨を掌れば『司膳録』を、皇城司を掌れば『皇城紀事録』を著し、郊祀に従って行宮使となれば『南郊録』を、詔を奉じて宮殿を建てれば『版築記』を、太宗の棺を護送すれば『永熙皇堂録』と『山陵提轄諸司記』を、郡を治めれば『下車奏報録』を著した。史官が太祖と太宗の『実録』を編纂するよう命じられると、国初の出来事の多くが王延徳から聞き取ったものである。また王延徳は『太宗南宮事跡』三巻を上程した。

 子の応昌は荘宅使・端州団練使となった。


 上記の「太宗の埋葬」、本文は「永熙復土」なんですよ。儒者に文章書かせると、こういう相手の知識を試すような書き方するから嫌い。
 巻三百九には同姓同名の王延徳が載せられています。同じく太宗が晋王であった頃から仕える人物ですが、こちらは高昌国に遣わされて『西州程記』を著し、その後、地方官を歴任した人物です。

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