ナントカ堂 2020/11/08 21:21

海陵王小話②

前回、張通古伝の一部を出しましたが、同じく張通古伝にこうあります。


 海陵王は臣下に対して厳しい態度で臨み、親王・大臣に対しても一切穏やかな態度を取ったことは無かったが、張通古と会うときだけは必ず礼を以って接した。


気に入った人には優しいみたいで、巻七十八の韓鐸伝には


 海陵王は中使を遣わしてこう伝えた。
 「郎官は高い地位である。汝は賢明な勲臣の子として既に官職に就いているが、能力のある名門であるため汝を任命したのだ。昼夜公務に励むなら、先任者を越えて抜擢し、公・相の地位にさえ到達可能であろう。」
 韓鐸は発奮し、裁判で疑義があった場合、経議に基づいて裁決した。


と、励ましたり、巻九十の馬諷伝では


 馬諷は張忠輔と共に中丞となると、権力者たちは二人を使って高楨を中傷しようとした。二人は共に政務に通じ法を良く知っていたが、高楨には僅かたりとも付け入る隙は無かった。攻撃されることを恐れた高楨は、これを海陵王に訴えた。高楨が太祖以来の旧臣であったため、海陵王はその度に慰めた。


と慰めたり、巻九十一の趙興祥伝では


 海陵王が趙興祥に「子弟を官職に就けたいなら申し出るように」と言うと。趙興祥は辞謝した。海陵王はこの返答を気に入り、玉帯を賜って言った。
 「汝の官はまだ一品となっていないが、この帯を着用して朕の側に立つように。」


と重用したり、でも同じく趙興祥伝で


 海陵王はまだ淮南で健在で、二子は留められていた。しかし趙興祥は平州まで来て世宗に拝謁したため、世宗はその忠誠心を嘉し、秘書監に、更に左宣徽使にした。


のようにあっさり見限られていたりします。
 前回の張通古伝にあるように、古くから行われているという理由で惰性で行うことが嫌いだったようで、巻八十九の翟永固伝にはこうあります。


 貞元二年(1154)の科挙で、「尊祖配天」との題で賦を作るようにと出題された。海陵王は自分に対して底意があるのではないかと疑い、翟永固を召すとこう問いただした。
 「賦の題を朕は気に入らない。わが先祖は在位中に天を拝礼していなかったであろう。」
 翟永固が「拝礼していました。」と答えると、海陵王は「どうして生きている間に拝礼していた者が、死んでから拝礼される側となるのだ。」と言った。
 翟永固が「古くから行われてきたことで「典礼」に載っています。」と答えると、海陵王は「古くから行われていたなら桀・紂が行っていたことでも私にもやらせようというのか。」と言った。
 こうして翟永固と張景仁は共に杖で二十回打たれた。


 自分が事前に想定していた答えと異なる答えが返ってきた場合、巻八十九の魏子平伝にこうあります。


 正隆三年(1158)に宋主の誕生日を祝う使節の副使となった。このころ海陵王は宋討伐を計画していて、魏子平が帰国して拝謁すると、海陵王は江南の状況を尋ね、更に「蘇州と大名とではどちらが優れているか。」と言った。魏子平は答えた。
 「江・湖の地は土地が低く湿潤で、夏服は蕉と葛で出来ており、暑さに堪えられず、大名とは比べ物になりません。」
 海陵王は不快となった。


 不快にはなったものの魏子平は何か処罰を受けた様子も無く、筋が通っていれば認めるということなのでしょうか。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

最新の記事

記事のタグから探す

月別アーカイブ

限定特典から探す

記事を検索