ナントカ堂 2020/11/15 00:32

宋太宗家臣団①

 コロナのせいで閲覧できない史料があるので保留状態となっているものから一部転用。(年内に全然別の時代の物を代わりに出す予定です)


 『宋史』巻二百七十六の論賛にこうあります。


 太宗が晋王だった頃、側近には必ず忠厚強幹の士を求めた。即位するに及び、王だった頃に支えた功により、陳従信・張平・王継昇・尹憲・王賓・安忠の六人を要職に就けた。全員、軍事と食糧問題で大いに頼りとされ、各々その職務に励み、称賛された。張平は昔の怨みを水に流して士大夫として振舞うよう自ら心掛けた。しかし陳従信は邪佞なる者を推薦して、その術で帝の心を惑わせたことは近侍の常態を免れないものであった。


 太宗が王だった頃からの家臣、いわゆる「藩邸旧臣」といわれるもので、クビライの金蓮川幕府の劉秉忠・姚枢・張文謙や、永楽帝の燕王府の姚広孝・張玉・朱能のような存在です。
 今回は陳従信の伝を以下に記します。


陳従信

 陳従信、字は思斉、亳州の永城の人である。慎み深く能力があり、頭脳明晰であった。太宗が晋王だった頃、財産管理を任され、王宮の事は大小に関わらず全て任された。累進して右知客押衙となった。

 開宝三年(970)秋、三司が「国庫より毎月兵に支給する食糧が来年の二月の分までしかありません。各地の部隊に命じ民間の船を徴発して、江・淮の水上輸送を急がせましょう。」と言うと、太祖は激怒して言った。
 「国庫は九年分の蓄えが無ければ不足と言われている。汝は早くに手を打たず食糧を尽きかけさせて、各地の部隊に命じ民間の船を徴発しようと言うが、それで間に合うのか。今、仮に汝の意見を用いたとして、不足が生じたなら汝を処罰して兵たちに謝らなければならない。」
 三司使の楚昭輔は恐れ、太宗の邸宅に行って執り成しと助力を願った。
 太宗は承諾すると、陳従信を召して意見を聞いた。陳従信は答えた。
 「私は以前に楚・泗に遊学して食糧輸送の問題点を知りました。問題なのは、船員の食事を毎日通過する郡県から補給しているため遅れが生じることです。そこで船の往復日数を計算して期限に間に合わなければ処罰するようにすれば良いでしょう。また楚・泗から米を船で運んだ場合、車に載せ替えてから倉庫まで運びますが、運搬人を常駐させて、即時出し入れできるようにすべきです。これらの方法に切り替えれば、輸送のたびに日数を数十日減らすことができます。楚・泗から都まで千里、これまでは一回の輸送に八十日掛かり、一年で三回輸送していましたが、輸送上の無駄な日数を省くことができれば、一年にもう一回運ぶことができます。今、三司は民間の船を徴発しようとしていますが、許可しなければ三司の責任逃れを許すこととなり、許可すれば、民間の輸送ができずに都の薪炭は尽きてしまいます。そこで民間より船を募集して、堅牢なものは食糧輸送に当て、老朽化したものには薪炭を載せれば、公私共に利となるでしょう。今、市中の米価は騰貴していますが、公定価格を一斗あたり銭七十としているため、商人は利益にならないので都に運ぼうとしません。また今、都にある分も値上がりを期待して隠し売らないため、益々米価は上がり、民は飢え死にしかけています。もし民に米の売買を自由にさせれば、四方に出向いて都に持ち帰り、米が多くなって米価も自然に下がるでしょう。」
 太宗は翌日これを奏上し、太祖は裁可した。果たして陳従信の進言通りに問題は解決した。

 太宗が即位すると東上閤門使に昇進して枢密都承旨となった。
 このころ八作副使の綦廷珪が病のため休職したが、休職期間が終わっても報告せず、決まった日に朝礼に出ないまま職務に戻った。監督責任を問われて宣徽使の潘美と王仁贍は一季分の俸禄を減俸され、陳従信は閑厩使に、閤門使の商鳳は閤門祗候に左遷となり、その他も程度により処分された。
 太平興国三年(978)に左衛将軍に改められ、その後、枢密都承旨となった。
 太宗が并・汾に遠征すると、陳従信は大内副部署となった。
 七年(982)、秦王の廷美に連座して本官を免官となった。翌年、三使が三部に改められると、陳従信は度支使となり、浚儀宝積坊に邸宅を賜って右衛大将軍を加えられた。
 九年(984)に七十三歳で卒去して、太尉を追贈された。

 陳従信は方術を好んだ。李八百なる者がいて、自ら八百歳であると言っていた。陳従信はこれに大変慎ましく仕え、その術を伝授されることを強く願ったが、結局、伝授されなかった。また侯莫陳利用なる者が多くの不法行為を行ったが、これは陳従信が推薦したことより始まった。これらの事で陳従信は人々から非難された。


 李八百は『神仙伝』に出てくる人物で、ここに出てくるのはその名を騙った偽物でしょう。侯莫陳利用は中国で珍しい三字姓で、同姓では西魏時代の侯莫陳順が有名です。
 侯莫陳利用の伝は『宋史』巻四百七十の佞幸伝に出て来るので見てみましょう。


 侯莫陳利用は益州の成都の人である。幼いころに変幻の術を会得した。
 太平興国の初め(976)に都で薬を売り、煉丹術を騙って人を惑わした。枢密承旨の陳従信がこれを太宗に話すと、太宗は即日召した。その術を試すと大いに験があったため、その場で殿直とし、累進して崇儀副使となった。
 雍熙二年(985)に右監門衛将軍に改められ、応州刺史を領した。三年に諸将が北征すると、侯莫陳利用は王侁と共に并州駐泊都監となって、単州刺史に抜擢され、四年に鄭州団練使に昇進した。
 その間、多くの物を賜り、取り入る者は昇進し、遂には勝手な振る舞いをして誰憚る事無くなった。屋敷は豪華に飾られ乗輿も身分を越えたものを用いていたが、人々は権勢を恐れて誰も注意しなかった。

 失脚していた趙普が再び中書省に復帰すると、殺人を始めとして様々な不法行為を調べなおして奏上した。太宗は近臣を遣わして調査書の内容を知ると、死罪を猶予しようとした。趙普は強硬に主張した。
 「陛下が誅されないのであれば、天下の法が乱れます。法よりも重視すべきことは無いはずです。」
 遂に詔が下され、侯莫陳利用は官籍から除名の上で、商州に流され禁錮となった。初め家産は没収となったが、まもなく詔により返還された。

 趙普は、侯莫陳利用が再び登用されることを恐れた。
 殿中丞の竇諲が監鄭州榷酤であったころに「侯莫陳利用は都からの使者と会うときにいつも南を向いて応対していた。(天使南面)犀玉帯に紅黄羅袋を用いた。澶州で黄河が澄んだ時、鄭州の科挙でこのことが詩の題として出されると、侯莫陳利用は答案を見て甚だ不遜な発言をした。」と話していたことを知った。そこで竇諲を中書省に呼び出して詰問し事実を確認すると、竇諲にこの件を上疏させた。
 更に京西転運副使の宋沆が侯莫陳利用の家産を没収した際、数枚の紙を得たが、それらは太宗の実名を書いて誹謗していた。
 太宗は怒り、切り刻んで殺すよう中使に命じた。遣わしてから、他の者を遣わして死罪は猶予するよう伝えさせた。後から遣わされた者が新安まで来ると、馬が泥濘に嵌まり、抜け出すと馬を替えて追いかけたが、着いたときには既に前に遣わしたものが殺し終えていた。


 侯莫陳利用は初めに変幻の術で召されましたが、それ以降は変幻の術で何かしたという記述はありません。
 『続資治通鑑長編』巻二十七に、「契丹の主は幼く、国母と重臣の韓徳讓が国政を壟断しているので人々は反感を持っています。この機に幽薊を取るべきです」と進言して、太宗に北伐を決断させたり、上記でも軍職を歴任して、そちらの方面にある程度才があったのでしょう。
  確か、「石刻遺訓」に「言論を理由に士大夫を殺してはならない。」というのがあったはずなのですが、ただの悪口だと殺されてしまうのでしょうか。

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