ナントカ堂 2020/08/24 22:01

ドックの発明者

 日本版のウィキペディアだと宋代の張平は「曖昧さ回避のためのページ」に
「張平 (宋) - 北宋の官僚。」とのみ書かれて項目は立てられていません。
 中国版の維基百科も項目が立てられていないことは同じですが「消歧義頁」に「是船塢的發明者」とあり、船塢つまりドックの発明者とされています。
 以下に『宋史』巻二百七十六よりその伝を訳します。


 張平は青州の臨クの人である。若いころに単州に寓居し、刺史の羅金山を頼った。羅金山がジョ州に異動となると馬歩都虞候に就けられた。太宗が京兆尹となるとその部下となり、秦王の廷美が貴州を領すると、その部下となって信任された。
 数年後、ある者が「張平が府中の金銭と物品を隠匿した」と讒言した。秦王が太宗に言って調査させたが証拠は出なかった。秦王はますます不快となり、遂には張平を追い出した。
 罪も無いのに追い出された張平を不憫に思った太宗は、徐の主将の高継冲の部下とした。高継冲は張平を鎮将とした。張平は嘆いて言った。
 「私の命運は尽きかけているのかもしれないが、後に幸運がもたらされないとは限らない。」

 太宗が即位すると、召されて右班殿直となった。
 秦・隴の木材の売買の監督となると、制度を一新し、水路と陸路の費用を計算して、春と秋に巨大な筏を連ね、渭水から黄河まで流し、砥柱を経て都に集まるようにした。こうして数年のうちに良材が山と積まれるようになった。太宗はその功を評価して、供奉官に昇進させ、陽平の木材に関する総監督と造船場の監督とした。
 これまでの担当官は船が完成すると、河が溢れて流されないように一隻につき三戸に命じて守らせていた。これが年間で数千戸の負担になっていた。張平は池を穿って水を引き、その中に船を繋ぎ止めた。以来民を徴発することは無くなった。
 賊徒の陽抜華なる者が、関輔一帯に出没して長い間人々の害となっていた。朝廷は内侍に数州の兵を指揮させて討伐したが勝てなかった。張平が人を遣わして好条件で説得したため、陽抜華は来帰した
 崇儀副使に改められて職務に努め、九年間で官銭八十万緡を削減した。

 雍熙の初め(984)に都に召されて同知三班事となり、如京使に昇進した。
 三年に西上閤門使に改められ、わずか三ヶ月で更に客省使に改められ、四年に王明に代わって塩鉄使となった。
 張平は陽平を長期間管掌していた。その年の秋、陝西転運使の李安が張平の陽平時代の不正を告発したと聞き、憂悶のあまり病となり卒去した。享年六十三。弔意を示して朝政を停止し、右千牛衛上将軍を追贈して、官費で葬儀を行った。

 張平は史伝を好み、身分が低い頃、珍しい書を見つけると終日読み耽っていた。また服を脱いで本と交換する場合もあった。身分が高くなると書を数千巻集めた。
 彭門に居た頃、郡吏のうち数人が張平を侮っていた。後にその者たちは全員罪を犯して都で窯焼きに従事させられた。張平の子の張従式がちょうどその監督となり、その者たちを見かけて張平に話した。張平は家に招くと、酒と肴を用意して労い言った。
 「貴公らは不幸にしてこのような目に遭っているが、行いを慎んで以前のことを思わないように。」
 そして緡銭を与え、張従式に「待遇を良くしてやるように」と言った。まもなく恩赦によりその者たちは解放された。当時の人々はその寛大さを称賛した。


ウィキペディアの「乾ドック」の項の


最古のドックとされるものは1495年にイングランドポーツマスに設けられたものである。ただし、9世紀ごろには中国で乾ドックのようなものが用いられていたという説もある。


というのがこれでしょう。

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