ナントカ堂 2020/09/02 20:42

宋代の宦官の養子

 唐代・宋代は、宦官が養子を取って宦官を世襲していくという現象が見られましたが、養子にしても必ずしも宦官とするとは限らず、『宋史』「宦官伝二」の藍元震伝に「藍元震には養子が五人いたがいずれも宦官にはしなかった。」とあるように別の道を歩ませる場合もあります。
 藍元震の子たちの事績は分かりませんが、内侍の張景宗の養子の張孜について『宋史』巻三百二十四にこのように記されています。


 張孜、開封の人である。母が身分が低いころに張孜が生まれ、後に母は悼献太子(真宗の第二子。仁宗は第六子)の乳母となった。張孜がまだ乳児だった頃、真宗は内侍の張景宗にこう言って預けた。
「この子は立派な風貌をしている。汝は謹んで世話をするように。」
 結局、張景宗が養って自分の子とした。蔭位により三班奉職となって春坊司に勤め、殿直に転じた。

 仁宗が即位すると供奉官・閤門祗候に昇進した。陳州兵馬都監となると袁家曲に堤防を築き、以後、陳州では水害が無くなった。
 五回昇進して供備庫使となり、恩州団練使・真定路兵馬鈐轄を領し、莫州・貝州・瀛州の知州を歴任した。
 転運使の張オン之が「冀・貝の驍捷軍士の上関銀と鞋銭を廃止すべきです」と奏上したため、仁宗はこれを張孜に諮った。張孜は言った。
 「冀・貝は界河の先鋒の兵で、戦いとなれば必ず先頭に立って戦うことになります。そこで平時より他の軍とは別に賜り物をしているのです。廃止してはなりません。」
 張オン之がなおも固執して止まなかったため、結局、保州の雲翼に金銭と食料を別に支給することは中止となった。果たして兵たちはこれを怨み叛いた。

 契丹が盟約を破棄しようとしたため、富弼が使者として遣わされ、張孜は副使となった。議論は富弼がするとして、張孜は国境地帯について詳しかったからである。その功により西上閤門使・瀛州知州に昇進し、単州団練使・龍神衛四廂都指揮使・并代副総管を拝命した。
 河東で鉄銭法を改めたため人々に疑いが生じ、兵たちは相連れ立って政庁に行き訴えようとしたが、政庁では門を閉ざし中に入れなかった。その日、危うく叛乱が起こりかけたが、張孜が馬を走らせ数人の兵を連れて説得に向かったため、皆、解散して営に戻った。
 済州防禦使・侍衛馬軍都虞候に昇進し、更に殿前都虞候に昇進して桂州管内観察使を加えられ、侍衛歩軍副都指揮使となった。
 虎翼兵が規則に違反した。指揮使が問いただすと、屈強な者が反抗し、夜中に乗じて、十数人が大騒ぎした。そしてその勢いで人を殺そうとした、張孜は首悪を捕えて斬り、事後報告した。
 昭信軍節度使観察留後・馬軍副都指揮使に昇進した。

 張孜は宮中に長く居たため、内外のことに深く干渉しているように見えた。このため言官が、張孜から兵権を解くよう進言し、寧遠軍節度使・ロ州知州として外に出された。その後、陳州に異動となった。仁宗は他に代えがたい人物として再び召して馬軍副都指揮使とした。御史中丞の韓絳は言った。
 「張孜に兵権を持たせるべきではありません。宰相の富弼が推薦したため地位に就きました。富弼も罷免するよう願います。」
 富弼が責任を取って辞職しようとすると、諫官と御史が揃って「張孜が地位に就いたのは富弼の推薦に拠るものではない」と言い、韓絳は出仕せず処分を待った。そして言った。
 「再び御史になろうとは思わない。」
 韓絳は蔡州知州に左遷されたが、張孜もまもなく罪により罷免され、曹州知州となった。
 卒去すると太尉を追贈され、勤恵と諡された。
 張孜は初め名を茂実といったが、英宗の旧名を避けて、「孜」と改めたという。


 『続資治通鑑長編』巻百九十一の嘉祐五年(1060)五月戊申条には、張孜が実は真宗の隠し子であったため兵権を委ねられたとの憶測があったことが記されています。

 この張孜ですが、旧名は張茂実。歳は二十離れていますが「茂」が同じ張茂則の兄弟なのかもしれません。以下『宋史』「宦官伝二」より。



 張茂則、字は平甫、開封の人である。初めに小黄門に任じられ、五回昇進して西頭供奉官・幹当内東門となった。宮中に夜中に盗賊が入ったとき、張茂則は真っ先に屋根に上って賊を捕らえ、その功で御薬院を領することになった。
 仁宗が病床にある間、夜中に呼び出されても、張茂則はすばやく駆けつけて仁宗を看護した。ある側近が宮門を閉ざそうとすると、張茂則は「そこまで心配することは無い。もし門を閉ざせば内外に不安が生じるであろう。」と言った。仁宗が病の間は押班の地位に居ることを望んだが、その後、地方官となることを望んで、宮苑使・果州団練使に転じて、為永興路兵馬鈐轄となった。都に戻って内侍押班となり、さらに副都知に昇進した。熙寧の初め(1068)、司馬光相と共に恩州・冀州・深州・瀛州を視察して、堤防を造ることと六塔・二股河の改良すべき点について報告し、入内都知に昇進した。
 上元の夜に宮中で火災が起こると、兵を率いて速やかに鎮火したため、英宗は「宮中が混乱せず、蔵の物も焼失を免れたのは、張茂則の忠誠心と尽力によるものであり、私はこれを高く評価する。」との詔を下して、窄衣と金帯を賜った。老齢によりたびたび辞職を願い出て、「国から手厚いご恩を受け、俸禄を過剰に受けています。そこで受け取らないまま七年溜まっている禄を、三司に命じて証書を破棄されるよう願います。」英宗はこれを褒めて官位を昇進させた。哲宗が即位すると寧国軍留後に昇進し、両省都都知を加えられた。七十九歳で卒去した。
 張茂則は生来倹約家で、食事も味にこだわらず、衣服も十数年間同じ物を着ていた。紹聖年間(1094~1098)になって元祐の党人(王安石派)が問題となったとき、張茂則が党人を推薦していたとして、遡って左監門衛将軍に降格され、崇寧年間(1102~1106)には党人の一味とされた。

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